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2006/03/25

古書との出会い:新東京百景(山口瞳)

 戦後東京の大きな変化点として、多くの人が東京オリンピックをあげていますが、バブル景気による東京の街並みの変化は、オリンピックと同じ、いやそれ以上だったようです。

 今回はバブル景気真っ只中の昭和60年代の東京を描いた「新東京百景:山口瞳、新潮社、昭和63年」を紹介しましょう。

 新東京百景は、山口瞳さんと臥煙さんのニックネームをもつ担当編集者がコンビを組み、”変わりゆく東京を自分の目で見て、絵でもってそれを残したい”をきっかけに、東京各地を描く連載としてスタートしました。新宿超高層ビルから始まる話は、最初の頃は、小説家の写生旅行記のように、その絵を描くためにどれだけ苦労したかなど絵筆の話が中心でした。

 ところが都内巡りが進むにつれて、話は、消えた古い東京への嘆きから、目まぐるしく変わる東京の町への驚きを通り越し、新しい東京への憤りとなっていきます。「麻布十番・六本木」では、ディスコの服装チエックに怒り、「竹芝桟橋と帝国ホテル」では”いま東京が面白い・・・なんだか、幼児が砂場で遊んでいるような趣きがある”と急激に変わる東京の姿に驚き、さらに”東京なんて、・・・メチャクチャなんである”と憤っている。ホテルのバカ高い料理やボーイの接客態度に怒り、ラウンジでキスする客に怒り、銀座の高級ホテルの豪華さにあきれるのである。そのスルドイ指摘がイヤミにならないのは、山口さんならではでしょう。
 
 新東京百景は、「小説家のお絵かき道中記」をよそおっていますが、その実体は「バブルに踊る東京紀行記」です。バブル期を知る人は、思わず”そうだ、そうだった!”とうなづき、”わずか20年前の東京が既に懐かしい町になっている”ことに思いをはせることでしょう。

ShinTokyo100Kei

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2006/03/18

古書との出会い:東京の横丁(永井龍男)

 「東京の横丁:永井龍男、講談社、1991年」は、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」に著者自らが手を入れたものです。その原稿は亡くなれた後に見つかり講談社から刊行されました。

 「東京の横丁」は、永井龍男が生まれ子供時代をすごしたた神田猿楽町の描写から始まります。明治末から昭和初め、駿河台下にあった借家が立ち並ぶ横丁には、八百屋、魚屋をはじめ様々なもの売りがやってきました。
 
 そこはニコライ堂が近いせいか、ロシア人女性や英国人宣教師などの外人も住んでいました。やがて永井家は、横丁の別の家に引越して二階に下宿人をおきますが、そのとき下宿人のところに遊びに来ていたのが芥川龍之介だったりするなど、横丁に登場する人はじつに多彩でした。

 「東京の横丁」は、さらに関東大震災、戦争、鎌倉の話などが続きます。それぞれは短い文章ですが、さすが短編の名手といわれる永井龍男の作品だけあって、どれも読み終わると落ち着いた気持ちになります。

Tokyo_No_Yokocho


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2006/03/11

久世光彦作品の思い出

 久世光彦さんが3月2日亡くなりました。

 今回は、いつもの古書との出会い・東京本紹介を休んで、久世作品の思い出を少し書きましょう。

 テレビニュースは、告別式に集まった人々の姿とともに、久世さんがTBSで演出した「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などのドラマの映像を繰り返し流しました。

 銭湯を舞台としたドラマは「時間ですよ」以前にもあったと思いますが、それまでの銭湯ドラマは、脱衣場にカメラを据えて番台での銭湯主人と客とのやりとりの映像がほとんどで、銭湯を舞台と言いながら、実際には番台ドラマでした。ところが「時間ですよ」では、番台に座っている主人が、あたかも脱衣場や浴室を見渡すような映像を演出したのです。視聴者が番台に座ったら、そこからどのように見えるかを映像にしたのです。これには、本当に驚かされました。

 その後の「寺内貫太郎一家」も見ましたが、こちらはちょっと作りすぎのような気がした記憶があります。いくら下町が舞台でも、こんな家族はいないんじゃないかという印象を持ちましたが、その後、久世さんが東京阿佐ヶ谷生まれ育ちであることを、どこかで読み、なんとなく納得しました。今は商店街もあって下町の雰囲気があるように言われる阿佐ヶ谷ですが、もともとは都心を少し離れた新しい住宅地で、退職した先生や勤め人が静かに暮らす町というのが、昭和生まれの東京人が阿佐ヶ谷や荻窪にもつイメージでした。

 身内や近所に下町で暮らした経験のある大人がいると、子供たちは、その大人たちの使う下町言葉や生活知識を自然に親しむようになります。しかし、大人たちが大げさに言うのか、それとも子供たちが自分なりに膨らましてしまうのか、子供たちが描くイメージは実際よりも大きくなることがあります。やはり、どっぷり下町に住んで身についた下町のイメージと、少し距離をおいて得た下町のイメージは、すこし違うかもと思った次第です。

 久世さんが制作したドラマで最も印象に残っているのは、昭和初期の東京を舞台にした一連の向田邦子スペシャルドラマでした。そこで描かれた昭和東京の家の様子、薄暗い電燈に照らされた家具がつくる陰影など、大道具から小道具まで全てが昭和の雰囲気を作り出し、まさしく久世さんならではの映像でした。

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2006/03/04

古書との出会い:東京文学散歩(野田宇太郎)

 文学散歩を名のった本は、「新東京文学散歩:野田宇太郎、日本読書新聞、昭和26年」が初めてとされています。その成り立ちは、日本読書新聞の元編集長であった長岡光郎氏が、「野田宇太郎、東京ハイカラ散歩:角川ランティエ文庫」巻末に、「文学散歩」誕生の記として述べています。文学散歩は、もともと新聞連載として企画された”近代文学の名作の舞台、文学者の事跡などをた尋ね歩いてのルポルタージュである”とあります。

 野田宇太郎の「新東京文学散歩」は、日本読書新聞の昭和26年新年号から7月まで月1回づつ掲載され、連載完了後に単行本として刊行されました。東京ハイカラ散歩巻末の略年譜によれば、昭和27年、角川文庫版がベストセラーとなるとありますから、文学散歩の企画は大成功だったのでしょう。その後、野田は、「九州文学散歩」、「関西文学散歩」、「東京文学散歩」など一連の「文学散歩」ものを次々刊行し、文学散歩という分野を確立しました。

 今回は文学散歩の代表として、「東京文学散歩第二巻、下町(上)築地・銀座・日本橋界隈:野田宇太郎、小山書店新社、昭和33年」を紹介しましょう。

 「東京文学散歩 下町(上)、日本橋川のほとり」の書き出しには、”京橋通りと「東京三十年」”のサブタイトルが付けられています。東京三十年は、以前紹介した田山花袋の東京三十年ですが、その第一章の書き出しを引用してまだ幼い(11歳)田山花袋が丁稚奉公していた京橋の有倫堂書店の話から日本橋界隈の話がはじまります。

 やがて白木屋(現在の日本橋コレドの場所にあった白木屋デパート)を通りすぎ、丸善を舞台とした田山花袋、尾崎紅葉、芥川龍之介の話「丸善の思い出」にうつります。この中で、野田は、内田魯庵が書いた「思い出す人々」に収録されている丸善を訪れた尾崎紅葉の話をとりあげています。

 これは、明治の流行作家であった尾崎紅葉の意外な面を示す話なので、少し紹介しましょう。

 明治2年、早矢仕有的により設立された商社丸屋商店は、明治13年に丸善となり書籍、文具、雑貨などを扱うようになりました。その洋書部門の顧問をしていた内田魯庵は、明治36年の夏、丸善へブリタニカを求めにきた尾崎紅葉に出会いました。そのとき紅葉は、すでに胃がんに冒されて重態であると言われてましたので、魯庵は、紅葉が来たことに非常に驚きました。

 しかし紅葉は、”まだ1ヶ月や2ヶ月は大丈夫生きているから、ゆっくり見て行かれる”と言い、そのとき在庫があったセンチュリーを購入したのです。その後、紅葉は、約3ヶ月後の明治36年10月30日に36歳で亡くなりました。

 野田は、自らの死が近いことを知りながら、なお本を求めた紅葉について、”まだ春秋に富んだ尾崎紅葉が、知識の殿堂とも言えた丸善に瀕死の肉体を運んだ姿には、自若として大悟徹底した古武士の面影さえあったようだ”と感想を述べています。

 野田宇太郎の文学散歩本は、全集としても発行されましたので多くの図書館が蔵書しています。東京文学散歩で取り上げられた文学作品や作家は、明治や大正が多いのですが、昭和30年代当時の東京の様子もよく記述されており、掲載されている当時の写真とともに昭和東京を知る資料として貴重な本です。

 なお東京文学散歩は、過去に数社から出版されましたが、最初に出版された小山書店新社版は表紙に江戸絵図(本所深川絵図)の写しを使用した美しいものです。その後の雪華社と文一総合出版は、両方とも単色の表紙となっています。

「東京文学散歩第二巻、下町(上)」 小山書店新社
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