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2008/02/09

昭和8年の地図を読む:谷田川を行く

 前回の「フィールドワーク:霜降銀座・谷田川を行く」で、昭和の初め(昭和6年)ごろ、谷田川沿いに商店や住宅が増えて川の暗渠工事が始まった。また歩いてみると、町工場を背後にもつ下町の商店街にいるような気がすると書いたが、当時の谷田川上流周辺の様子を地図で見てみよう。

_3b_4 ここに載せたのは昭和8年の模範新大東京全図、昭和7年、滝野川町などが東京市35区に編入された直後に作られた地図だ。

 駒込付近(地図の右下部分)をみると、ミドリで囲んだ部分に霜降橋という地名が載っている。ここを起点に谷田川の上流方向をみると、青色で囲んだ部分に海軍火薬廠の文字がみえる。さらに地図の上をみれば、陸軍火薬廠、王子火薬製造所、十条兵器製造所、板橋火薬製造所など火薬・兵器関係の工場が並んでいる。このように、かつての滝野川・王子・板橋の地域は、軍関係の工場地域であったことがわかる。

 軍の工場があれば、それを支える民間の工場も当然あったろうし、工場で働く人々のための住宅や商店も周囲に必要になるはずである。もう一度地図をみれば、現在の霜降銀座とそれに続く染井銀座・西ヶ原銀座は、戦前は海軍火薬廠に隣接する地域と言えるだろう。昭和初期、火薬廠やその関連工場に勤務する人々は、この地域に住み商店を利用したように考えられる。

 さてこの海軍火薬廠とはどのようなものだろうか?

 時代は一気に明治30年代にさかのぼるが、日本海軍は、下瀬火薬製造所を明治33年に滝野川に開所し、のちにここを海軍火薬廠爆薬部とした。下瀬火薬は、海軍技師:下瀬雅允により開発された火薬で、その威力は日露戦争の海戦勝利に貢献したと言われている高性能火薬である。

 この海軍火薬廠は、昭和の初めに滝野川から移転し、昭和15年、その跡地に東京外語大学がおかれたが、その外語大学も2000年に移転した。跡地は、防災公園・福祉施設となることが予定されている。

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コメント

じんた堂さん、こんばんは。
精力的に調べておられますね~。
僕のほうも、先日、谷田川沿いの商店街を少し歩いてみました。
ところで、軍需工場と商店街の関係、興味深く拝見しました。手元にある資料を読んで、軍事施設と戦後にできた団地の関係について関心をもっています。赤羽火薬庫→都営桐ヶ丘団地、被服廠→公団赤羽団地とかですかね。

投稿: わきた・けんいち | 2008/02/12 21:34

わきたさん、こんばんは、
私は、東京の北となるこの地域に全く土地勘がなくて、見るもの全て新たな発見です。古い地図では、板橋・十条の石神井川流域には、日本陸軍の工場が並んでいますが、なぜか滝野川の谷田川側にポツンと一つ海軍の火薬工場があります。海軍工場なら港の近くと思いますが、何故ここに作ったのでしょうか、不思議に思っています。この地域、いまは静かな住宅地のように見えて、どこか軍靴の響きがこだましているような、次回はmasaさんも含めて皆さんで歩きましょう。

投稿: じんた堂 | 2008/02/13 20:07

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