« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011/05/29

面白東京本4「東京だより」

 昭和30年代の東京の姿を記録した本を探していたとき、「東京だより」(朝日新聞社、東京大学出版会、1961年(昭和36年))にであった。

 「東京だより」は、朝日新聞の日曜版に連載された記事をまとめたもの。その序に”日曜版ができてからちょうど一年目”とあるように、いまはあたりまえの日曜版だが、朝日の日曜版は昭和34年4月5日が第一号。この連載は、その1年後の昭和35年のものだ。

 執筆陣は、花森安治、戸板康二、芝木好子、曽野綾子、門田勲(朝日新聞のベテラン記者)と有名作家が起用され、それぞれの視点で東京を駆け巡り筆をとっている。

 花森安治は、水上バスを取材している。

 ”新橋のたもとに、水上バスの船着場がある。むかしの一銭蒸気が、十年ほどまえに復活して、ここから浅草の言問橋まで、隅田川を上り下りしている。もっとも、むかしとちがって、丘の方には地下鉄もあればバス電車もあるから、交通機関というよりは、遊覧バスである。まいとし今ごろになると、大川ばたの風に吹かれて涼んでこようというムード派のお客をいっぱいのせて出入りしていた。それが久しぶりに行ってみると、なくなっているのだ。五百メートルばかり川下にひっこしたのである”とある。

 この新橋は、いまも交差点名で残る土橋・難波橋と蓬莱橋の間にあった汐留川にかかっていた橋。ちょうど汐留川が埋め立てられ上が高速道路となり、新橋にあった水上バスの船着場がなくなり築地へ移転した当時のことだ。花森は、さらに水上バスで隅田川を上り、”安物のインキを流したような、紫とも紺ともつかない色。染物工場のどぶに流れている色にも似ている”と当時の隅田川の様子を述べている。

 女性作家だから主婦向けの話題とは限らず、執筆陣の中でまだ若手だった曽野綾子は、なかなかハードな現場に向っている。

 たとえば下水道の取材では、”私の体はゴムの胸まである長ぐつで、どっぽりと重く、外側からみたら、まるで出来損そこないの火星人みたいに見えるだろう”と、神田淡路町付近の下水道に入り込むのだ。

 副題に「美女と液体人間」とあるが、”まるで地下鉄の中のように広く美しい”映画セット(美女と液体人間は1958年公開の映画)にたいして、”現実の下水道というものは、まことに劇的というよりも、人間的に愛すべきものであり、その日その時、神田淡路町、小川町あるいはもっと遠くの地域で排せつないし廃棄されたあらゆる水分は、みんな私のまわりをゆるやかに、ひそやかに流れているのである”と、暗い下水道の光景を文学作品風にレポートしている。
 
 「東京だより」は、そのいかにもどこにでもありそうなタイトルで本棚にあっても進んで手を伸ばす気にならないかもしれないが、いざ開いてみると、昭和30年代の東京がどのような姿だったか、東京オリンピックを前にして東京がどのように変わったかを語る本である。

| | コメント (0)

2011/05/22

面白東京本3「アルバム東京文学散歩」

 文学散歩は、野田宇太郎の「新東京文学散歩」(日本読書新聞、1951年6月25日)がはじまりとされている。文学作品の舞台となる東京の各地を訪れ、作家およびその作品について語るのだが、その地が取材時にどのようになっているか現状を文章および写真・挿絵で記録している。それは文学をはなれて、東京の町を記録する資料でもある。

3dsc08403 東京ハイカラ散歩(角川ランティエ叢書、1998年5月18日)に長岡光郎が寄せた文によれば、新東京文学散歩は野田と織田一磨画伯が連れ立って都内各地を歩きまわり読書新聞に連載されたのち、加筆し単行本として織田画伯の挿絵60葉と大竹新助のカット写真、恩地孝四郎の装丁で刊行されたとある。

 「新東京文学散歩」を開くと、織田画伯の挿絵は当時の雰囲気をとらえているが、これが写真であればもっと資料性が高いと思うことがある。野田自身もそのように思ったようで、昭和29年(1954年2月5日)に写真を数多く収録した「アルバム東京文学散歩」を創元社から刊行している。そこには野田が撮影した昭和27~28年頃の東京の姿が記録されている。(こlこに掲載した写真は、「アルバム東京文学散歩」の無縁坂のページ)。

 それならばなぜ新東京文学散歩に写真を入れなかったのだろうか。たぶん新聞連載だったので挿絵にしたと思っていたが、最近、その答えらしき文をみつけた。

 文一総合出版より刊行された野田宇太郎「文学散歩」全集別巻1(1974年6月10日)は、昭和27年角川文庫となった新東京文学散歩を底本として再収録している。その巻頭のおぼえがきに”当時は焼け跡の写真は進駐軍の検閲がきびしかったので、織田一磨画伯にいつも一緒に歩いてもらってわたくしの書いた場所をスケッチしてもらった”とあるのだ。このとおりであれば写真検閲を逃れるために挿絵としたことになる。情報統制は戦時中だけと思っていたが、どうもそうではなかったようだ。

 いま我々は多くの情報に接しているが、はたしてそれは統制されずにいるのだろうか。詳しいデータや映像があるのに、あえて簡単なイラストや都合のよい部分だけを発表していないだろうかと考えずにいられない。

| | コメント (0)

2011/05/15

東京面白本2「東京案内記」

 面白東京本1で紹介した「東京風物名物誌」のはしがきに、具体的な本の名前は書かれていないが、似たような東京本がすでにあることをうかがわせる記述があった。

Photo そこで取り上げるのが「東京案内記」(木村毅、黄土社書店、初版昭和26年10月25日)。この本は、東京風物名物誌に大きさも厚さもそっくりな装丁となっているが、はたしてその内容はどうだろうか。

 東京案内記の序によれば、この本はドイツで発行されていた旅行案内ベデカ(Baedeker)を手本として編集したとある。ベデカは、寺田寅彦随筆集に収録されている「案内者」(大正十一年一月)に登場することから分かるように、戦前からよく知られていた旅行案内書。東京案内記は、1)概説、2)観光案内、3)生活と娯楽、4)文化施設、5)旅館と交通の五編から構成されている。

 概説は、年中行事からはじまり歴史、地勢、気候、人口、住宅、交通さらに犯罪地図や火事など社会情報を記述している。興味深いのは犯罪地図。繁華街で犯罪が多いことは想像通りだが、住宅地区のある区について”強窃盗の本場の観がある”と述べるなど都市の影の部分にも言及している。

 観光案内は、皇居から隅田川、公園・庭園、天然記念物、重要文化財、神社仏閣など東京の名所旧跡の紹介。

 生活と娯楽は、盛り場への招待、銀座、新橋、日本橋と京橋、人形町、丸の内、有楽町、神田、新宿、渋谷、池袋、上野、浅草、錦糸町を案内している。錦糸町の江東楽天地(現在の東京楽天地)は、東宝の小林一三により開発された劇場・映画館が建ち並ぶ娯楽街だが。東京案内記によれば、”演劇・映画共催の江東劇場、洋画封切の本所映画の二大劇場、それに小屋は両者より狭いが邦画洋画の特選ものをやる錦糸町映劇の三者が隣接鼎立し、その中間にダンススタジオと国営競馬場外馬券売り場がこの一帯の人気に一層拍車をかけている。間もなく映画とオドリの瀟洒な新劇場「リッツ」と吉本興業の吉本江東劇場が建つ”、この本が書かれた当時は”錦糸町は興業成績も上々で新宿・浅草をしのぐ勢いがあった”と書かれている。

 このように項目をみると、「東京案内記」と「東京風物名物誌」は内容も似ている。当然、これら二冊を比較したくなるが、地図の細かさや有名店の誕生話となると「東京風物名物誌」だが、娯楽風俗の話題になると「東京案内記」も捨てがたい。

 たとえば「東京案内記」は、もはや東京遺産になりつつある純喫茶についてこのように記している。戦前のカフェー全盛の頃だが”社交喫茶・新興喫茶などというものが出来た。これはコーヒーとかケーキとか食べさせる店だが、注文すればビールでも酒でも出す。カフェーほど濃厚ではなかったが、美人にサービスさせもした。割合に安値だったのと、甘党も行けたのとで非常に繁昌し、女給十数名内外の小店が至るところに出来、その数はカフェーをしのぐほどになった。あまりにこの種の喫茶店が多くなったので、酒をおかない純粋の喫茶店は、この種のものと区別するために、わざわざ「純喫茶」と断るようになった”と純喫茶の名前誕生の経緯を書いている。

 さらに「東京案内記」は、ストリップ劇場を料金を含めて紹介したり、カフェー、キャバレーから料亭、都内各地の人気芸妓、さらに寄席とその入場料を紹介するなど、戦後娯楽を語る貴重な資料としていまも役立つ。なにしろ銀座にできた東京温泉についても”色とりどりのサービスで料金百円から”と紹介しているほどである。

| | コメント (0)

2011/05/01

面白東京本1「東京風物名物誌」

 季刊コレジオは外形は小さいが、地形・地図それぞれの分野で活躍されてい方々が寄稿しており、読み応えのある冊子である。

 2011年春号の巻頭を飾るのは、松田磐余氏による「江戸・東京地形学散歩」の読書のために補遺”NHK放映の「ブラタモリ」。これは、上野台地と本郷台地に挟まれる谷のようになった谷根千の低地形成に関するもの。興味のあるかたは是非一読されたい。

Photo 私が注目した寄稿は、山下和正氏の”東京風物名物誌・銀座」。山下氏は建築家だが、地図コレクターとしてもよく知られており古地図に関する本も書いている。その山下氏が、小型図紹介8として「東京風物名物誌」(岩動景爾、魚住書店、昭和31年)を取り上げている。

 「東京風物名物誌」は、東京案内本。そのはしがきに”現代東京人の日常生活においては名所旧跡を訪れるより繁華街に歩を運ぶ方が多く、盛り場に対する親近感と必要性は遥かに大きい”とあるように、東京の歴史、東京の名所旧跡、東京の四季と年中行事に加えて東京の繁華街を詳しく紹介している。

 その一番の特長は、盛り場の詳しい地図とお店の紹介である。地図は、住宅地図のように各戸の店名が記されている。

 銀座の地図をみれば、大通りには三越・松屋などのデパートや服部時計店(現在の和光)の名があるし、永井荷風の文章に登場する富士アイスも地図右上に広告を載せている。その富士アイスについて本文では、”富士アイスは大正十三年創業、銀座におけるアメリカンスタイルの一品料理の開祖、健康料理等を発案して喝采を博した。その名の如くアイスクリームは独特の好味を以って銀座マンに長年親しまれている。四丁目教文館ビル地階のほか戦後は有楽町スバル座裏喫茶店街にも進出し、界隈ビル街の人々のよき憩いの喫茶店となっている”と紹介している。

 さらに銀座の地図をみると松屋デパートと服部時計店には英語でPXの文字があることに気づく。PXは、進駐軍に接収され米兵専用の売店となっていたところである。しかしこのPXの表記は、時期的におかしくはないだろうか。松屋デパートの歴史によれば、銀座店がGHQに接収されPXになったのは1946年(昭和21年)であり、その接収は1952年(昭和27年)に解除されている。それなのに昭和31年初版の本がPXと記しているのだ。

 じつは魚住書店版「東京風物名物誌」は、昭和26年12月20日東京シリーズ刊行会から発行された「東京風物名物誌」を復刻したもののようだ。二つの本を見比べたことがあるが、この二冊は装丁が少し違うが、その内容は全く同じで、文章も地図も昭和26年に作成されたものがそのまま使われている。松屋にPXの表記があるのは、このような背景があったのだ。さらにつけ加えれば、東京シリーズ刊行会版は、紙質がわるく表紙も他の印刷物を流用したものであった。

 ところで4月30日谷根千で開催された一箱古本市に、面白東京本としてこの魚住社版「東京風物名物誌」を出品したところ、開店早々この本を手にされた方が即購入しますとなった。ということで、そこにいた一部の人にしか見ることが出来なかったのが残念だが、この本は戦後東京の歴史を背負った面白東京本の一つと言える。

| | コメント (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »