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2011/08/20

扇橋閘門へ行こう(2)最初は小名木川閘門

 前回の扇橋閘門へ行こう(1)で地図に工事中の荒川放水路が記載されていることをふれましたが、この工事が小名木川に閘門を造る最初のきっかけとなりました。

7 明治43年8月、荒川上流に降りづいた雨(8月2日から16日まで断続的に、荒川源流に900~1200ミリの雨が降ったとの話が残っています)により、荒川・隅田川の堤防が次々決壊、千住・浅草・向島・本所・深川を大洪水が襲いました。浸水の激しい所では、1階の天井付近まで達し人々は屋根上に避難するほどでした。荒川の水害は明治40年にもあり41年に荒川分水の建議が出されていましたが、明治44年ついに正式に放水路開削の調査・工事が始まりました。

 荒川放水路は、中川を分断し小名木川につながる新川を分断しました。このとき荒川放水路と中川とそれにつながる小名木川との間に水位差を生じたので、船舶通航のため小名木川閘門(昭和2年)を造りました。やがて通航量(昭和2年は1日1200艘)が限界に達したので、昭和5年に小松川閘門が増設されました。1日1200艘というのは、1時間に50艘となりちょっと信じられない大きな数字ですが、間違いではないようです。しかし舟による輸送が減るとともに小名木川閘門は昭和39年に水門へ改修、小松川閘門は昭和51年に閉鎖され、荒川放水路から閘門は消えました。

 昭和8年東京地図で小名木川閘門と小松川閘門を確認してみると、荒川放水路と中川・小名木川が接する地点に二つの水門のようなものがあります。船堀橋に近いものが小松川閘門、その下が小名木川閘門です。さらに荒川放水路と新中川の間にある土手に水門があります、これが新川への入り口となった新川水門です。

 荒川放水路の開削には、当時内務省の技師だった青山士(あおやまあきら)氏が参加していました。青山氏はパナマ運河開削に従事した経験をもつ人で、荒川と荒川放水路の分岐点となった北区岩淵水門は彼の設計によるものです。東京の閘門をパナマ運河になぞらええるのは、このような背景も関係しているようです。

 次回は、第4回深川橋めぐりで訪れる扇橋閘門の話をします。

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