本のこぼれ話し

2018/02/06

活字本が手放せないのは

 レコード時代から活字媒体の内容を音声媒体に録音したものはある。有名俳優やアナウンサーに小説などを朗読してもらい、それをカセットにしたものをカセットブック、CDにしたものをCDブック。いまはこれらにダウンロードが加わり全てまとめてオーディオブックと呼ぶらしい。私もいくつかオーディオブックを持っており、パソコンやウォークマンで聴いている。

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 先日、向田邦子「思い出トランプ」のオーディオブックを聴いていてふと思ったことがある。

 活字本とオーディオブックは同じ内容ながらも、その印象が異なることがある。それは朗読をする人の声質や微妙な間のとりかたが関係しているかもしれないが、それよりも文字を追いながら読む行為の特性が影響しているように思う。

 オーディオブックは一定のテンポでどんどん進み、聴く者はそれに合わすことを強いられるのに対して、活字本は前行や二行さらに三行前の内容を確認しながら行きつ戻りつしながら読むことができる。読書するテンポと進行は完全に読者にまかせられている。オーディオブックを持っていながらも、いまだにその活字本が手放せないのはこういうことかもしれないと思ったのだ。

 それにしても向田邦子は、話の展開がうまい。たとえば「花の名前」(オーディオブックでは加藤治子が朗読)では、電話機の下におく小さな座布団の話からはじまり、平穏な生活のなかに降りてくる微かな闇というか陰影を描いていく。やさしい文体でありながら、どこか毒のある文章はさすがだ。

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2018/01/07

和もの本

 このごろ”和もの本”が気になっている。先日あるイベントで本をプレゼントをすることになり、そこで私が選んだのが「京料理」の文庫本。

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 これは角川ソフィア文庫・ジャパノロジー・コレクションの中の一冊、このシリーズは妖怪、和菓子、根付、千代紙、盆栽などが既に発行されており、いまも増えている。いずれも文庫判でありながら美しいカラー図版を数多く収録、そのどれもが大きくて見やすく、さらに文章のレイアウトもゆったりとして読みやすい。

 「京料理」は、京都の旬の素材とその料理を写真と短い文章で紹介している。はしがきに、”京都で暮らす人々が普段の生活の中で、親しんできた味”であり、”料理屋さんで出るような立派な料理ではありません”とあるように、京都の家庭で作り食べられている料理を季節ごとに紹介している。

 ところでこのごろは全国の食材が手に入るようになり便利になったが、旬を感じる機会が少なくなった。たとえば冬至に食べるカボチャは夏に収穫されるが、冷暗所で保存することで甘みが増し冬至のころまで食べられる。ところが年が明けて春になってもカボチャがスーパーの野菜売り場に並んでいる。それらの産地をみると、メキシコだったりニュージーランドだったりして、流通の進歩が旬の狭間をどんどん埋めている。

 こうなると京都に限らず地元でとれた野菜を旬に味わうことは、とても難しいかもしれない。しかしそれゆえ、試したくなるのもうなづけるのだ。

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2017/04/02

花を追う

 青木玉の本「こぼれ種」のなかにある「花を追う」は、母親と一緒に都内各地のサクラを見て回った話からはじまり、桜もちの葉で知られる大島桜(オオシマザクラ)について語っている。

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 いまは染井吉野(ソメイヨシノ)が全盛だ。花が枝を隠すほどたくさんつき、一つの花が大きく、色は桜色、葉はあとからで花を邪魔をしないなどの特長があるからだろう。大島桜は染井吉野の親だが、その並木は見かけないし、植木屋の扱いもそっけない。

 しかし大島桜は、実つきがよく、さまざまな新品種サクラの親木になるなど良い点がある。その開花時期は、染井吉野と同時か少し遅れた頃だが、都心ではなかなか見かけない。そこで満開の大島桜を確実に見るため、飛行機で大島へ飛ぶのだ。「こぼれ種」は、木や花の話題を数多く取り上げているが、「花を追う」は、この時季にピッタリの話だ。

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2017/01/22

ガラスのプロペラ(安西水丸)

 「ガラスのプロペラ」(安西水丸、誠文堂新光社)は、あとがきに”デザインの自叙伝風エッセイのようなもの。子供の頃からおもっていたことや、感じていたことを素直に書いてみた”とあるように、子供の頃すごした千倉の話から、ニューヨークでデザインの仕事をしていたころ、さらに日本に戻ってきてからの活動を語っている。読みやすい文章に加えて、イラストが随所にあり見るだけでも楽しめる。

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 ところで安西水丸は人物のイラスト(似顔絵)も数多く描いているが、その似顔絵についてこんなことを書いていた。高校時代に似顔絵が苦手なことを友人に話したら、ブロマイドを買って練習するように勧められたとの話につづいて、”今だに似顔絵は上手くないが、この頃はむしろそっくりに描けない自分に誇りをもつようにしている。どうやらぼくに似顔絵を描かれた人たちは、気の毒がってむしろ向こうからぼくの絵に近づいてきてくれているようだ”と語り。村上春樹から「ぼくの顔、最近、水丸さんの描く絵に似てきちゃたみたいで」と言われたことを紹介している。これは作家とイラストレーターの関係を表したいい話だと思う。

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2016/10/02

もう一つの「あまカラ」本

 以前、冨山房の思い出の中で富山房百科文庫の「あまカラ抄」を紹介したことがあるが、先日、もう一つの「あまカラ」本にであった。

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 「あまカラ」をもう一度復習すると、「あまカラ」は大阪の甘辛社が、昭和26年から43年にかけて200号まで発行した食に関する小冊子。版型は、B6版横開き(銀座百点と同じというか、こちらが先だが)。じつは、甘辛社は和菓子の老舗である鶴屋八幡のなかに置かれており、その社長がオーナーとなり発行していた。執筆陣は当時の有名作家や文化人が名を連ねた。

 今回の本は、随筆「あまカラ」として大阪の六月社より昭和31年に発行されたもの。編集は「あまカラ」に連載をもっていた小島政二郎が担当しており、趣味の良いデザインの函付きとなっている。巻頭は、志賀直哉と辻嘉一の対談、つづいて徳川無声、獅子文六、安藤鶴夫など「あまカラ」に掲載されていた文章が並んでいる。

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2016/06/26

珈琲記

 前回の「コーヒーと恋愛」につづいて「珈琲記」を読みはじめる。珈琲記(黒井千次、紀伊國屋書店)は、食の文学館に掲載された珈琲に関する連載にあらたな書き下ろしを加えたエッセイ集。

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 ”朝の珈琲は一杯というわけにいかず、食事中にゆっくり飲み、そして新聞を持って居間に移り、楽な椅子にかけて食後のもう一杯を飲む”と、二杯の珈琲は、著者の朝のルーティンに組み込まれている。こうなると珈琲の味や入れ方に強いこだわりも持っていて、どの街にもある手軽なカフェなどには絶対入らないように思ってしまうが、これがそうでない。

 たとえば、”時間がないのにとりあえず珈琲を飲みたくてたまらない時など、ハンバーガーショップに飛びこんで珈琲だけ注文”。それは隙間だらけの珈琲色の液体だと言いながらも、それにふさわしい作法と味覚があり、これまた捨て難いと語り。また、チェーン展開しているカフェの珈琲についても、”街角の珈琲に別種の味覚をつけ加えたものといえそうな気がする”と語る。このように著者の珈琲への姿勢は、それぞれの長所短所を認めながらとても寛容なのだ。本書は、大人の珈琲への向かい方を語る一冊だ。

 ところで、この本は1997年発行、ということはシアトル生まれのカフェが日本に上陸してまだ間もないころであり、最近話題のサードウェーブコーヒー(黒船コーヒー)などは上陸どころか船影も見えないころだ。著者はこれら新しい珈琲をどのように思っているのだろうか、続編を読みたくなる。

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2016/06/18

コーヒーと恋愛

 ”いつの間にか獅子文六がブームのようだ”という古本TさんのMの日記に触発されて、ちくま文庫で復刊された獅子文六の小説を読みはじめた。

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 「コーヒーと恋愛」(獅子文六、ちくま文庫)は、昭和37年~38年(1962~63)に読売新聞に連載された長編小説「可否道」を改題したもの。新劇出身でTVドラマの人気女優ながら美味しいコーヒーをいれることに誰もがみとめる才能をもつモエ子と、今の言葉でいえば格下夫となる年下の舞台装置家の夫の勉、その間に入り込む若い新人女優のアンナ、さらにコーヒー愛好家の集まりである日本可否会の面々がからむ恋愛模様をえがいた作品だ。

 今から約50年前、作家が70歳のときに書いた作品だが、話の展開も言い回しも古さを感じさせず現代に通用する。唯一、話がタクシーやバスなどの料金に及んだとき、これが昭和30年代の作品であることを知るが。全体を通してみると舞台をパリやニューヨークに移しても成立しそうな軽妙なラブコメディになっている。これは映画化したら面白いだろうと思ったら、すでに1963年に制作されていてモエ子役は森光子だったそうだ。

 ところでサードウェーブコーヒーというのがよく分からない。サードウェーブの特長として語られる、厳選したコーヒー豆を注文を受けてから粉にしハンドドリップでコーヒーを入れるのは、以前からちょっとした町の喫茶店でもやっていたし。産地にこだわりを豆を焙煎するところも以前からあった。サードウェーブとはなんだろうとモヤモヤしているうちに、マニアの間ではフォースウェーブの話がでているらしい。どうやらすっかり波に乗り遅れてしまったようだ。

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2016/02/28

ムーンリバーをもう一度

 オードリーヘップバーンが主演した映画「ティファニーで朝食を」は、ドレスアップしたオードリーが早朝にタクシーでティファニー前に乗りつけるシーンからはじまる。紙袋から食べ物をとりだしそれをかじりながら、ショーウィンドウを眺めながら歩く。そこにヘンリーマンシーニ作曲のムーンリバーが小さく流れる。いかにも都会を舞台にした恋愛ストーリーのはじまりを予感させる導入部だ

 ところで「ティファニーで朝食を」の映画はテレビで何度か観たが、トルーマン・カポーティの原作はずっと読んでいなかった。先日、新潮社から2008年に発行された村上春樹翻訳版を読むことがあった。読み進めながら気づいたのは、いつのまにか原作と映画を比較している自分がいることだ。それほど映画をしっかり観た覚えはないが、ここは映画と違うとか、ここは映画と同じかもしれないという読みかたをしてしまう。頭の中におぼろげな映像を呼び出しながら読んでいたのだ。

 村上春樹は、本の巻末で、”今となっては本を読む前に既に映画を観ている人が多く、主人公ホリー・ゴライトリーについ、オドリー・ヘップバーンの顔が重なられてしまうことになる。これは小説にとってはいささか迷惑なことであるかもしれない”と述べている。まさしくその通りかもしれない。しかし、主人公ホリーの破天荒な行動と言動にとまどいながらも最後まで一気に読めたのは、やはり映画でのオードリーのチャーミングな印象があったからだろう。

 それにしても映像もそうだが音楽の力も大きい。主題歌ムーンリバーは、映画をはなれてアンディ・ウィリアムス、フランク・シナトラをはじめ多くの歌手がレパートリーに加えるスタンダードソングとなっている。いまや映画は観ていないが、この歌は知っている人もいるだろう。

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2016/01/11

新年はこの本から

 新年最初の一冊は、「和菓子の京都」(川端道喜、岩波新書)。初版は1990年だが、アンコール復刊され現在も新刊で購入できる。新春にちなんで第二章「葩餅(はなびらもち)、肴から茶菓子へ」を読む。

 花びらもちは茶道の初釜の菓子とされているが、いまはこの時季に町の和菓子屋の店頭でもみかける。薄い白い丸餅(固くなるのを避けるため求肥にしたものが多い)の上に薄い赤い菱餅をおき、そこにゴボウとミソ餡をおき、それらを包むように全体を二つ折りにした半円形の菓子だ。

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 この本では、花びらもちのルーツを宮中の正月に飾れた鏡餅からひもとき、宮中の包み雑煮を紹介。これは梅を象徴した薄い丸餅の上に赤い菱餅をのせ、さらにアユなどがのせられ酒の肴として供せられた。そのアユがいつしかゴボウに置換わり、宮中ではこれを御所で働く人々に開いた状態で配ったが、その場で食べたり持ち帰ったりするとき折りたたんで食べていたようだ。明治になり天皇が東京に移ると、宮中の菓子のいくつかが茶道家に供されるようになり、その代表格が花びらもちだとされている。

 川端道喜は、450年を超える歴史をもつ京都の老舗和菓子屋だが、その語り口は気負ったとこがなく軽妙で分かりやすい。家に伝わる資料や自ら学んできたきたこと、それは菓子だけにとどまらず広く京都文化に及ぶ.。この本は新春にかぎらず京都に思いをめぐらすとき開きたい一冊だ。

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2015/11/15

オムレツの話をもうひとつ

 オムレツの話をといえば、以前、紹介した伊丹十三「日本世間話大系」の「プレーン・オムレツ」がある。レストランのオヤジから聞きだすオムレツ作りの話は、そんなことまで聞いちゃうのとまるで現場からの実況中継のような文章で面白い。

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 先日、もうひとつのオムレツ作りの文章に出会った。高橋義孝「蝶ネクタイとオムレツ」(文化出版局、昭和53年)は、以前ある人から教えてもらったが、そのときは見つからずそのままになっていた本だ。

 ”もう何十年もの間オムレツと卵焼は自分で作っている”とはじまる「オムレツ作り」の話は、長年の経験に裏打ちされたオムレツ論のおもむきがある。”オムレツは味で食べるものでない。卵の味はきまっている。オムレツは焼き上がりの姿で勝負するものであろう”と語り。その形のたとえとして柳の葉と柿の葉の中間位の形が理想、表面に細かい縮緬皺が寄っているなど、さすがドイツ文学者だが日本文化にも詳しい高橋らしい表現だ。

 さらにフライパンのサイズや火加減やタイミングなど調理のコツも詳しくのべている。で、これらのコツを誰から教わったかとなるが、”これは新橋の小川軒の先代、小川順さんから教わったことである”と文中で明かしている。

 高橋義孝、伊丹十三ともに”オムレツの話”だが、その文章はひと味もふた味もちがう。はたして彼らがつくるオムレツはどのようなものだろうか、いまはもうかなわぬ話だが二人が互いに食べ比べたらどのような感想を述べるだろうか。

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