アースダイビング

2009/11/08

日本橋に坂道はあったのか?

 先日、コレジオ芳賀氏の神保町講演のなかで、日本橋台地(江戸前島)の名前がでてきた。

7dsc09027 ”この付近(神保町)にある神田一橋中学校で発掘された水道用木樋のカスガイに牡蠣が付着しており、この地は低湿地というよりも潮干満の「入江」であった”との話しとともに、江戸時代、日比谷入江が、武蔵野台地と日本橋台地に挟まれている地図を示された。

 「東京の地理がわかる事典」(鈴木理生、日本実業出版社)では、江戸前島の項で”この場所を現代の地形学では「日本橋台地」と呼ぶ。山の手台地の一つである本郷台地の先端が、海進期の荒波に削られて低く平らになった場所で、「日本橋波食台地」とも呼ばれる”とある。

 ところで台地の端には坂がある。無縁坂、湯島天神男坂、神田明神男坂、九段坂などは、みな台地の端に位置する坂である。となれば、いくら荒波に削られ低く平らになったとはいえ、日本橋台地の周辺にも坂があってもおかしくない。たとえ坂が残っていなくても、その痕跡の名前ぐらいはあるのではないだろうか。

 まず開いたのが、東京の坂道を解説した「江戸東京坂道事典」(石川悌二、新人物往来社)。この本は、台地別に坂道を列記しているが、残念ながら、日本橋台地・江戸前島の項はなく、ざっと見たところでは日本橋台地・江戸前島を述べたところも見つからない。

 やはり、日本橋台地に坂道はないかと思ったが、先週、たまたま人形町から日本橋室町へ向かう道で、写真の光景を目にした。

 場所は日本橋三越本店の向かい側にある、鰹節大和屋さんの横の路地、ハンペンで有名な神茂と佃煮の鮒佐のある通りである。それが昭和通りに接する部分が、わずかだが坂のようになっているのだ。

 しかし、この場所はどうみても台地の端には見えない。

 自宅に戻り、復刻版江戸古地図の日本橋付近をみると、現在の昭和通り江戸橋付近に堀があり、さきほどの路地は、この堀にぶつかっていたようだ。

 堀・川となれば、いつもの「川の地図事典」の出番である。

 P39の地図によれば、ここにあったのは「西堀留川」、上から見れば、ちょうどL字型の堀であることが分かる。P46の「西堀留川」解説では、”日本橋川左岸からの入堀。本船町と小網町一丁目の間から北西に向かい、堀留町一丁目の手前で西に折れて室町三丁目で留まっていた”、さらに”堀は旧石神井川の下流部にあたる谷田川の河口部にあたり、慶長年間の工事で入堀として整備された”とある。

  2008年3月、コレジオ主催で行なわれた「川の地図事典」出版記念ウォークは、駒込付近からの谷田川の上流をさぐるものであったが、今回、日本橋で、再び谷田川の名をみることになった。坂道は見つからなかったが、なにか不思議な縁を感じるとともに、同時にはるか昔の台地の姿に思いをめぐらしてみたくなった。

| | コメント (0)

2009/10/17

シュロのある風景@谷中

 根津駅から谷中方面へ向かう。

7dsc08379 不忍通りから旧藍染川の道まではどの家も隙間なく建っているが、坂道を上がるあたりからは大きな屋敷がちらほらと。

 あかぢ坂を上がり突き当たりを右に曲がると、大名時計博物館として公開されている屋敷がある。

 その門前にそびえるのが写真のシュロの木。

 まるでお約束事のように、大中小のシュロが植えられている。

 ところで庭木の解説書によれば、シュロは芝や家の玄関に植え、西洋風庭園に効果的とある。たしかにシュロのある景色は、和風というよりもどこか異国のような雰囲気がある。しかし、それは西洋趣味というよりも南洋趣味の影響が大きいように思う。遠き島より流れ着くヤシの実を思う心である。芭蕉も大きな屋敷で見かけるが、同じように南洋趣味ではないだろうか。

| | コメント (0)

2009/10/16

シュロのある風景#2@北千住

 再び北千住へ向かう。

7dsc07523 先日、紹介したシュロ並木@北千住の近くで、またもシュロを見物。

 こちらは大きな医院の庭にあるシュロの木。

 二階屋の屋根を越える高さも見事だが、なによりも、4本並んだ右肩上がりの高さが絶妙。

| | コメント (0)

2009/09/25

ドーム屋根の想い出@駿河台

 駿河台で用事をすませた帰り道・・・、

7dsc08147 マロニエ通りの一本線路よりの(かえで通りと言うらしい)道を、御茶ノ水駅前交差点に向かって進んだ。

 今日はさらりとした天気、すべての景色がとてもクリアに見える。たしかこの辺りからニコライ堂が見えたはずと交差点の先をみつめたが、明るい日差しに白く輝くビルが見えるだけで、ニコライの緑色ドーム屋根は見えない。

 どうもこれは思い違いをしていたようだ。

 この通りから見えるのはドーム屋根でも、今は居酒屋の入る複合ビルのドーム屋根だった。たしか、ここはその昔喫茶店だったはずだ。この付近にあった喫茶店の名前を上げれば、ジロー、舟、ミロ、サンロイヤル、ウィーン、穂高、滝沢、ロビン、田園、丘、レモン、マロニエ、FINEとなる。このうち、いまも喫茶店として営業しているのはミロと穂高だけのようだ。
 
 ところで、喫茶店からスタートしたジローとキッチンジローは同じ会社だと思っていたが、じつはこの二つは全く違う会社だそうだ。

 御茶ノ水駅近くにあった喫茶・ケーキのジローはGIRAUDで、これは現在ジローレストランシステムとなり、数多くのブランド名で店舗を展開するレストランチエーンになっている。

 キッチンジローは、創業者小林次郎さんの名前にちなむKitchenJiroで、千代田区を中心に都内にレストランを展開している。

 この二つ、GIRAUDはシャンソン喫茶として1955年神保町でスタートし、KitchenJiroは一号店を1964年神保町に開店と、なぜかどちらも神田神保町生まれである。神田神保町は、本だけの町ではないのだ。

| | コメント (0)

2009/09/21

クラッシクなガラスケース@北千住

 スーパーやコンビニなどのオープン陳列棚に慣れてしまったのか、ガラスケースをクラッシクに思う。古臭いということでなく、落ち着いて好ましいということだが。

7dsc07319b ガラスケースでも、ステンレスやアルミなど鈍く光る金属でおおわれた最新のものは、清潔だが冷たい印象がする。それに対して木枠のガラスケースは、どこか柔らかで温かい。とくに古いお店で見かけるコーナー部をカーブさせたショーケースは、オシャレに感じる。

 写真のガラスショーケースは、北千住の商店街でみかけたもの。

 枠はすべて木製、床からの立ち上げ部分はタイル張り。しかもその部分は、下にいくほど小さくなるように絞ってある。ショーケースの中は二段に仕切られ、そこに置かれているアルミ製のトレーもガラスに合わせてカーブしているなど、細部までしっかり作られている。

 まさしく、いい仕事をしている。

 いまはPockyが高く積まれ、ふ菓子、ソースせんべいが入っているガラスケースだが、往時はどのような商品を並べていたのだろうか・・・気になるガラスケースだ。

| | コメント (0)

2009/09/13

サイドカー自転車@北千住

 オートバイのサイドカーのように、荷物運搬用側車をつけた自転車を、北千住でみかけた。

7dsc07900 前回のリヤカーカブは畳屋さんだったが、こちらはブリキ屋さん。お店のガラス戸に、大きく「ブリキヤ」とあるので間違いない。

 こういう形式の自転車は、いまは珍しくなったが、かつて我が町のガラス屋さんにもあった。

 窓ガラスの補修をたのむと、板ガラスを積み込みんだサイドカー自転車で来てくれ、家へつくなり窓の寸法を測り、その場でガラスを切り、ピタッと入れてくれた。ガラス屋のおじさんは、”ダイヤモンドで切ったんだ”と自慢していたが、あれは本当だったのだろうか。

 ところでブリキ屋さんの作業を見ることは、少なくなった。いまは屋根まわりの材料がカラー鉄板と塩化ビニールパイプとなり、まるでプラモデルのように接着剤で組み立てている。かつて見かけたハンダ付け作業などは、まだあるのだろうか。

 もしかしたら、ここ北千住ならと期待してしまうのだが・・・。

| | コメント (0)

2009/09/12

リヤカーカブ@北千住

 スーパーカブは、戦後の日本が生み出した世界商品の代表である。

7dsc07844 東南アジアの朝、それこそ無数のカブが道路一杯に広がり疾走している光景をみたことがある。二人乗りはあたりまえ、なかには三人乗りもあり、その使い方の逞しさに圧倒される。じつはスーパーカブは、ホンダの商品名だが、いまは完全に普通名詞のように使われている。それほどに普及しているのだ。

 リヤカーも日本が生み出した商品だそうで、戦前から広く利用されていた。秋葉原付近では、以前からダンボールをたくさん積み込んだリヤカーを見かけたし、最近は、宅配便が商店街の店をまわるのに小型リヤカーを使っている。何事も組み合わせて新しい使い方を生み出すのが得意な日本人、スーパーカブでリヤカーを牽引したのも当然のなりゆきだろう。

 子供の頃、商店街に行けば、スーパーカブ+リヤカーを必ず見かけた。もちろん自転車でリヤカーを曳くのが多いが、自転車で運ぶにはちょっと大きく重い荷物、たとえば石炭俵、ドラム缶、材木(垣根用の丸太)や廃材などを運んでいた。

 それもいつのまにか見かけなくなり、懐かしの昭和風景になったと思ったら・・・先日、北千住で写真の光景にであった。

 ここは畳屋さん、店先の路上に畳が一枚置かれ、そのそばにリヤカーとスーパーカブが停まっていた。この姿をみて、思わず、長生きしろよとつぶやいてしまう、もちろん心の中でだが・・・。

| | コメント (0)

2009/09/11

トタン蔵住宅@北千住

 北千住・路地奥にひときわゴツイ屋根が見えたので進んでいったら、この建物に出会った。

7dsc07376 裏側からみると分かるが、この家は、もとは蔵。壁をすべて黒いトタンでおおい、そこに窓を開けて住宅に改造している。どこか洋館のような雰囲気もある、トタン蔵住宅である。

 家の前に縁台と植物、さらに玄関横の郵便箱の下にはコンクリート製のゴミ箱まで置いてある。じつは、この建物は、あるデザイナーがアトリエにしているそうで、この付近だけ、まるで昭和の路地のような佇まいになっている。

 ところで、今週末の9月12日(土)と13日(日)は、千住本氷川神社(東京都足立区千住3-22)の祭礼が行われる。12日は宵宮、午後6時から五町会大神輿連合渡御が予定されている。

| | コメント (0)

2009/09/07

小さな音楽堂@小布施

 忘れないうちに、小布施で見つけた建物について報告。 

 小布施を歩くと、いたるところで土蔵をみかける。白壁が輝くものもあれば、風雪にさらされ土壁をさらしているものもあるが、いづれもまだ使われているものが多いようだ。

7dsc07703 そんな景色の中に、古い小さな木造洋館を見つけた。

 茶色の太枠で縁どられた窓、建物側面のアーチ状の柱、どうもただの住宅ではなさそう、礼拝堂だろうか・・・。

 洋館に近づくにつれて、ピアノの音がだんだん大きくなった。子供が練習しているのか、同じメロディを何度も繰り返し、ときどき小さな声も聞こえてくる。先生が指導しているらしい。

 建物のすみで小さな看板を見つけた、太い文字で「音楽堂」と書いてある。

 近づいて見上げれば、窓枠の上にレリーフのような飾り、軒下に風通しのために開けられた穴も、デザインされている。細かい仕事が見事な音楽堂である。

7dsc07709_3窓の写真は、こちらに。

| | コメント (0)

2009/08/30

シュロ並木@北千住

 北千住のはずれにあるお寺につながる道、シュロがずらっと一列並んでいる。

7dsc07365 高さはゆうに2階屋を越え、空に向かってすらっとそびえている。

 シュロは、その表皮にスジが積み重なった模様の幹と、頂上付近にだけ葉がついている樹形から、南国のヤシの木を連想する。しかしヤシのように大きな実はならない。初夏に黄色い花、やがて表面に粉を吹いたような黒い小さな実をたくさんつける。鳥がついばんでいるのをみたことがあるが、その実は、民間薬としても利用されていたそうだ。

 シュロは、生活に深く関わってきた木である。身近なところでは、「シュロほうき」や「ハエたたき」など日用品となる。我が家の近くにあった理髪店は、シュロほうきで店の床を掃除をしていた。珍しいところでは、シュロの幹は、お寺などの「鐘つきの棒」に使われていた。シュロは、その南国風の樹形を楽しむだけでなく、このように実用的な木でもあったのだ。

 江戸時代はふすま絵にも描かれ、昭和までは屋敷の庭にも見られたシュロだが、植木屋さんによれば、”いまは野生化してどんどん増え、意外に成長も早く大きくなるため、やっかいものあつかい”だそうだ。

 栄枯盛衰は人の世のつねであるが、木もまた同じかもしれない、すべて諸行無常である。

| | コメント (0)

2009/08/26

夕暮荘@北千住

 秋が近づくにつれて、遅い午後の日差しは、少し赤みが増してきたように感じる。

7dsc07391 北千住の旧道には、出桁造りや蔵作りの古い商店が、いまもところどころに点在している。なかには戦前、震災前に建てられたものもあり、散歩ガイドやネットで紹介されている。

 それほど古く有名な建物でなくても、味わい深い建物がある。

 路地でみつけたこのアパートは、玄関屋根の小さな造形も良く、なによりサビ止め塗料によくあるような深赤色に塗られたトタン波板のようすがいい具合に落ち着いて、じつに良い感じになっている。もし名付けるとしたら、夕暮荘だろうか・・・。
 

| | コメント (0)

2009/05/20

麻布霞町の田舟

 暗夜行路という作品の名前は知っていても、志賀直哉がどのような作家だったかは全く知らなかった。

7dsc05240b 先日、旧麻布市兵衛町へ向かう途中、川好きotokoさんの案内で、青山墓地にある著名人の墓のいくつかに立ち寄った。

 志賀家の広い区画と、そこに整然と並ぶ墓石の列に驚く。

 じつは志賀直哉の祖父である直道は、古川財閥の創始者とともに足尾銅山を開発した実業家であり、父の直温も明治の財界人であり、直哉も学習院に学ぶような裕福な環境に育ったのだ。

 その志賀家は麻布にあったが、昨日読んだ「僕の東京地図」(安岡章太郎)に、青山界隈がまだ半分農村だった様子のなかに志賀家のことが書かれている。

 ”志賀直哉氏の家もやはりその頃まで麻布にあり、麻布から青山にかけて志賀家はたくさん農地を持っていたので、雨が降ると志賀家では田舟を出して、青山霞町あたりの田んぼが水に浸っていないかどうか見廻ったものだという”と、ある。

 霞町は現在の西麻布付近となり、川の地図辞典によれば、青山墓地周辺を流れていた笄(こうがい)川の支流が集まる谷のような地であり、大雨になれば田は水につかり田舟が出るような、まるで低湿地のような地だったのだ。

 現在はオシャレな店があつまる西麻布だが、どこか谷底のような雰囲気がするのは、大きな日陰をつくる高速道路のせいもあるが、やはりこの地形によるものが大きいだろう。

 写真は、青山墓地(舌状台地の舌先)から西麻布を方面をみたところ。

| | コメント (4)

2009/05/14

タモリ倶楽部川を歩く第3弾は三田用水

 先日、川好きotokoさんにお会いしたとき、タモリ倶楽部川を歩く第3弾が近々放映されるとの話しがあった。

7dsc02930 タモリ倶楽部の番組表を調べたら、15日(金曜日)24:15-24:45に以下の記述。

 ”「好評!都内歩いているだけ企画、三田用水のこん跡を巡る!」、今は廃止されてしまった用水路の跡を散策する”とあった。

 なるほど第3弾は三田用水、これは見なければ。

 ところで写真は目黒区青葉台付近、三田用水は、この坂の頂上にある尾根状の道を左から右へ流れていた。この急な坂をみれば、近くに水車があったという話しも納得してしまう。

 それにしても、この”都内歩いているだけ企画”というタイトル名は、たしかにその通りだが・・・。

 フィールドワーク三田用水(西郷山公園)は、こちらに

 三田用水と海軍火薬製造所は、こちらに

| | コメント (10)

2009/04/05

フィールドワーク:深川資料館通り謎の柱

 清澄白河にある深川資料館通りの中ほどに、歩行者専用「日曜・休日の10-18時」を示す道路標識が設置されている。これだけであれば、都内の商店街でよくみかける光景だが、その下の表示が興味を引く。

 そこには、毎月3・13・23日の16-22時とある。

7dsc04678 すなわち、この通りは、日曜・休日の昼間に加えて、毎月3のつく日は、夕方4時から夜10時まで歩行者専用となることができる。このレポートでは、この標識をきっかけにして、この通りで見つけた柱とその正体を報告する。

1.毎月3のつく日は縁日

 巣鴨のとげぬき地蔵は、いまも毎月4のつく日に縁日を行っているが、かつて都内には毎月1のつく日や5のつく日など、日をきめて縁日を行っていた場所が数多くあった。資料館通りに住む地元のお年寄りの話では、ここでは毎月3のつく日に地蔵さんの縁日が行われ、歩くのも大変なほどの人出で賑わったそうだ。いまは、縁日の賑わいは、お年寄りの思いでの中にしかないような落ち着いた通りだが、縁日が確かに行われていた証拠が残されているので紹介しよう。

2.縁日に必要な許可とは

 縁日の話しを進める前に、縁日に必要な許可について少し説明しよう。

 縁日のために道路を使用するには警察の許可が必要となるが、それはどのようなものだろうか。

 昭和35年に「道路使用許可取扱要綱の改正について」という文書が警視庁から出されており、その中で縁日露店について許可条件が述べられている。

 その文書の「縁日露店・出店地域の指定」に、道路の長さ・幅員などの条件に加えて、項目e)に以下の記述がある。

e)出店地域の両端には高さ1.5メートル、方径0.15メートルの角柱を歩車道境界石、又は道路に設置し、指定の区間及び期間、出店時間、管轄警察書名を表示すること。
 
 これによれば、縁日を行う道路には、縁日許可条件を示す柱が建てられることになるが、実際にはどのようだったのか、また今はどうなっているのだろうか。資料をいくつかあたったところ、以下二つの記録が見つかった。

2.1 縁日露店指定区域の柱の記録(品川)

 「東京の縁日風土記」(山本、講談社、昭和57年)は、“品川警察署の場合、管内四ヶ所の縁日がひらかれる道路上に、それぞれ許可範囲を書いた柱をたてている。他は、かつて同様の柱をたてたところもあるが、現在書類上で処理し、道路には何の公示もないところが多い。”と記している。

 このことを確認するために、昨年(平成20年)、北品川の虚空蔵尊(養願寺)付近を歩いてみた。養願寺には品川区の設置した記念碑などはあるのだが、残念ながら縁日露店指定区域の柱は見つからなかった。地元商店の人の話では、縁日はだいぶ前に無くなり、春秋のお祭りのときに露店が出るだけになったそうだ。

2.2 縁日露店指定区域の柱の記録(神田、洲崎)

 「わたくしの東京地図」(高橋義孝、文芸春秋、昭和39年)では、神田地区の写真の説明に“縁日は立たなくなった、縁日露店指定区域の標識だけが南明座の傍らに立っていた”とあり、洲崎を歩いた文章の中では“この電車道だったか、歩道の端に白ペンキ塗りの杭が立っていて、その杭に「縁日露店指定区域」と書いてあった”と記している。

 ここまで調べた限りでは、縁日露店指定区域の柱は、昭和30年代には都内の複数個所で見かけられたが、昭和50年代になると少なくなり。そして現代では、まったく消えてしまったか、あったとしてもそれは非常に少ないと思われる。

3.資料館通りの縁日露店指定区域の柱

 資料館通り商店街事務所前の交通標識の横を見ると、電信柱のかたわらに古い柱のようなものがある。その柱からは、ところどころ文字がかすれているが、“出店毎月・・・出店時間”、“出店地域指定期間・・・”などが、いまも読みとれる。

 この柱の形状・記述内容は、まさしく縁日露店指定区域を示すものである。昭和50年代には、都内から消えたと思われた柱が、まだ現存しているのだ。

 地元商店街の方の話しでは、これは昔からある縁日許可の柱で、現在、縁日は行っていないが、かつての賑わいの記憶を残すため、この柱を保存しているそうである。これは、間違いなく昭和の町の遺跡と言える。

| | コメント (0)

2009/01/09

その後の「川の地図事典」

 今日は、行く先々で皆さんから「雪見ました?」との質問をあびる。

7dsc03988b 朝からの冷たい雨に外出を控えた人がいたのか、いつもより人出が少なく予想外にスムーズに用事が完了、時間調整を兼ねて三省堂神田本店で本をみる。

 江戸・東京本コーナーに立ち寄れば、昨春に出版記念ウォークが行われたコレジオ「川の地図事典」が、ご覧のように七福神・銀座本に囲まれて平積みされている。

 帯をみてほしいのだが、”タモリ倶楽部に登場”とある。

 コレジオ社長の芳賀さんとタモリと江川達也氏が、石神井川を歩いた番組が、昨年タモリ倶楽部で放映されたが、それが反映されている。

 川歩き、ますます好調のようだ!

 ところで東京の初雪だが、どうもタイミングが合わず、一度も見ることができなかった、残念!

| | コメント (0)

2009/01/01

わがやのお雑煮#2009

 あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。 

2007年1月、わがやのお雑煮が話題になりましたが、その後、幾つかの話しが集まりましたので2009年の初めとしてまとめてみました。

7dsc03567b_2 お雑煮ついてまず話題に上るのは、いわゆるご当地雑煮というものですが、なかなかこうだと言い切れないないようです。おおまかには、西の丸餅と味噌仕立て、東の四角餅とすまし・醤油味じてたの汁の違いがありますが、東京のお雑煮はこうだという話しになりますと、とたんに我が家は違うとの話しが続出して、なかなかまとまりません。

 いろいろな話を聞いたり読んだりしますと、東と西の地域の違いのほかに、お雑煮には、具沢山の本格派と、具が極めて少ない簡素なものの系統があり、それぞれがご当地化することで具がかわり。さらに、親から他の地へ移動した子へ伝わり、地域を越えて拡がっていったように思えてなりません。

1.本格派からご当地化へ

 先日紹介した「ニッポンの縁起食、なぜ「赤飯」を炊くのか」の雑煮の項をみますと、

 ”雑煮の中身は地方色豊かです。それぞれの地方ならではの名産物や、旬の魚介類、野菜類などが入ります。この雑煮も、本来はお供えした餅を下げた羹(熱い汁で煮たもの)、つまり、直会の儀式でした。共に煮る具も、蓬莱飾りに見られるような乾物が多かったようです”と、述べています。

 蓬莱飾り(ほうらいかざり)は広辞苑に解説されていますが、新年祝いの飾り物で、熨斗(ノシ)アワビ、伊勢海老、勝栗、昆布、ほんだわら、串柿、裏白、橙などを飾ります。もしこれらの材料でお雑煮を作ったとすれば、アワビや伊勢海老が入った、豪華で具沢山なものとなりそうです。

 皇室のお雑煮には、味噌仕立ての汁に、丸餅、ダイコン、サトイモ、ニンジンに、アワビとナマコが入るそうですが。アワビは、蓬莱飾りにも登場するもので、これが本格派の源流に最も近いものでしょう。

 しかし、地方ではアワビや伊勢海老は入手が限られ、それぞれの地方で入手しやすい食材に置き換えられたはずです。海が近ければ地元の魚や貝、さらにそれらを加工したカマボコやチクワとなり、海が遠い地方であればニワトリや鴨肉などが具となり、こうしてお雑煮ご当地化がはじまりました。

2.簡素派の広がり

 東京の甘味屋のメニューに雑煮がありますが、これは簡単なものが多いようです。すまし汁に、焼いた角餅に麩と三つ葉か青菜などが入っているだけです。これを本格派から生まれたとするのは、少し無理があるように思います。それよりも徳川家康の雑煮として伝わっている、角餅に青菜と花カツオという武家の雑煮からきたと考えたほうが良いでしょう。

 この簡素派は、ご当地化にあたっても、もともと具が限られていますので、青菜が三つ葉へ置き換わる程度で、その変化はわずかだったはずです。武家に限られた簡素派は、明治になると一般にも広まり、具にも鶏肉や魚が加わったのではないでしょうか。
 
3.東京のお雑煮の話し

 話しを東京のお雑煮に戻しますと、本格派の雑煮は、野菜類はそのままに、汁は、味噌仕立てから醤油・すまし汁となり、お餅は丸から四角、具のアワビは、鶏肉やカマボコ、または全くなしになったようです。

 たとえば、「あの味この味ふる里隠れ味」(渡辺文雄、作品社、昭和56年)のお雑煮の話しの中で、東京出身の河内桃子さんは、”おすましの中にコマツナ、ダイコン、ニンジン、サトイモを入れます。それ以外は入れません”。同じ東京(神田)出身の渡辺文雄は、”四角い餅、それを焼いて、ダイコン、ニンジン、サトイモ、コマツナ、そして醤油味”と語っています。たぶん、これが本格派の流れをくむ、東京の雑煮の姿ではないでしょうか。

 甘味屋で見かけるような簡素派の東京雑煮の話しとしては、池田弥三郎が、そのものずばり汁粉屋の雑煮について語っています。

 「味にしひがし」(池田弥三郎、長谷川幸延、読売新聞社、昭和50年)で、池田弥三郎は、町のお汁粉屋の雑煮について、”すまし汁で、塩味の単純なもので、中には、餅のほかに、ちくわの二きれと、みつ葉ぐらいしかはいっていない”、さらに、”三が日の雑煮も、およそどこの家も大同小異であって、うちでは、少々のとりの肉を入れるくらいのものだ”と書いています。

 以上、東京の雑煮についての聞き書きをもとに、想像を膨らませてまとめたものを参考に、東京の雑煮をみますと。

 汁は醤油・すまし汁、四角い切り餅に
 
 1)コマツナ、ダイコン、ニンジン、サトイモを具にしたもの
 2)鶏肉、コマツナまたは三つ葉を具にしたもの

 の二種類となりそうです。なお鶏肉は、カマボコやチクワとすることもあり。

 さて、皆さんの家の雑煮はいかがでしょうか。

 本年もよろしくおねがします。

1月4日追加

 ここで、これまで皆さんから頂いたコメントにありましたお2009年雑煮のレシピを、出身地:汁:餅:具の順でまとめました。

1)東京:::大根、牛蒡、人参、里芋、ネギ:3が日それぞれ違うお雑煮を作るそうです。2日目は、小松菜、なると、鶏肉、3日目は、ミツバ、椎茸、ささみ、かまぼこ。
2):すまし汁(鰹節、昆布、醤油、塩、酒、鶏肉):焼いた丸餅:水菜
3)福井:醤油すまし汁:丸餅(焼いていない)::お餅だけのシンプルなものです。
4)すまし汁:四角い焼餅:大根、里芋、鶏肉、三つ葉
5)静岡:すまし汁:四角い焼餅:大根、里芋、牛蒡+食べるときに海苔と鰹節をぱらぱらと振り掛ける
6):白味噌仕立て::里芋+大根+ほうれん草

これをみると、大根、里芋・・・と続くものが多いようですが、餅だけという素朴なものもあります。

| | コメント (10)

2008/09/10

清澄庭園を歩く

 久しぶりに深川の水辺へ、

7dsc01362 清澄庭園について説明は不要だろう、江戸時代は紀伊国屋文左衛門の屋敷がおかれ、明治になり岩崎弥太郎により買い取られ整備され、現在は東京都の庭園になっている池の周辺に石が点在する公園。


 この時期、清澄庭園を訪れると、秋への模様がえを見ることができる。

 中ノ島にある萩には、赤い花びらが数輪。

 庭園の小道沿いの杭には、赤とんぼ。

 さらに季節が進めば、池のふちに彼岸花。

 こうして水辺を歩くと、季節が、確実に秋へ向かっていることを実感する。

| | コメント (0)

2008/09/07

清澄白河へ

 清澄白河へ向かう、

7dsc01183 清洲橋通りに並行して清澄白河から木場の現代美術館へ向かう通りは、江戸深川資料館通りと呼ばれている。

 かつて区役所通りと呼ばれていたことから分かるように、江戸深川資料館の地には元江東区役所が置かれていた。その名残か、商店街には古い蕎麦屋、和菓子屋、呉服屋などが並んでいるが、その一方、現代美術館へ向かうオシャレな若者が歩き、新旧が入り混じった不思議雰囲気の通りになっている。

 地元の方に通りのことをたずねたら、

  ”かつて区役所通りの中ほどで毎月3のつく日に縁日・夜店が行われ、いまもその縁日の許可を示す標識柱が残されている”と、実物を示しながら語ってくれた。

 調べてみると、区役所通りには「お地蔵様」と「お不動様」の二つの縁日があったようだ。お地蔵様の縁日は、清洲橋通り方向へ少し入ったところにある子育地蔵尊にちなむもので、3の日に行われていた。お不動様の縁日は、霊岸寺近くにある出世不動で7の日に行われていた。どちらもいまは廃れてしまったが、かつては相当に賑わったものらしい。

 高層マンションに現代美術館と古い昭和の香りが残る商店街、まったく相反するようだが、うまく交じり合うと面白い町になるかもしれない・・・、清澄白河から目が離せそうにない!

| | コメント (0)

2008/09/04

蛎殻町の銭湯

 蛎殻町を語るとき外せないのが銭湯:木村湯。いま、その木村湯が取り壊されマンション工事をしている。

7dsc01276 かつて蛎殻町の路地に、酒屋さんと中華料理店に挟まれて一軒の銭湯が建っていた。この付近では数少ないというか唯一の銭湯で、夕方、この路地を通ると銭湯帰りのお年寄りの姿をよく見かけた。

8dsc04296_5 営業中の木村湯(2007年9月撮影)

 その工事現場を眺めならが、地元の方と蛎殻町談義。(といっても、こちらはもっぱら聞き役だったが・・・)

 ”この木村湯のある路地はかつて蛎殻銀座とも呼ばれ、飲食店や飲み屋が数多く、寿司屋だけでも三軒もあり、夜も人通りが多く大変賑わっていた通り。その頃、この付近には瀬戸物屋が多くて、今は人形町で行われている瀬戸物市も、もともとこの路地と交差する通りで行っていたのが、狭いために新大橋通りに移動、それが人形町へ移っていたもの。さらに、この付近にはいまも印刷関係が目立つが、これでもだいぶ減り、以前はもっと多くあった”。

 路地から見るとちょうど突き当たりにある、新大橋通りに面して建つ銀杏八幡がこの地の神社。昼間はサラリーマンがあふれているが、やはり古くからの会社や大商店が少なくなったので、お祭りもかつてほど盛り上がらない。木村湯がなくなってからは、人形町の世界湯まで通っているなどなどの面白い話しがありましたが、それはまた別の機会に。

| | コメント (0)

2008/09/03

蛎殻町の美容院

 昨日と同じ蛎殻町、通りの角でみつけたモダンデザインの建物。

8dsc07677 シンプルながらどこかオシャレな感じがするとよく見れば、建物は左右対称にみえて微妙に変えてある。

 たとえば二階の建物壁面にある楕円形の飾りは左右対称だが、建物隅につけられた柱のような飾りは左が高く右が低い。この部分の段違いが、建物にちょとしたリズムが与えているような。一階正面の窓も、左右で微妙に大きさが違い、全体はシンプル仕上げながらどこかオシャレな雰囲気を作り出している。

 正面ドアのガラスに英字でSHISEIDO、さらにカタカナでゾートスサロンと書いてある、たぶんここは美容院なのだろう。

 さて、今日のタイトルだが、昨日の床屋にちなんで髪結いとしたいところだが、どうもこの建物のモダンさに似合わない。ここは、かんたんに蛎殻町の美容院としておこう。

| | コメント (2)

2008/09/02

蛎殻町の床屋

 日本橋蛎殻町は、北を人形町、南を箱崎に挟まれた地にある。

8dsc07681_2 蛎殻町という町名を知らなくても水天宮のある場所といえば、あ・・・あそこかと思い出す人は多いだろう。水天宮をのぞけば、とくに有名なものはないが、いまだに古い木造の家や銭湯があったりして、どこかゆったりした空気が流れているように感じる。

 先日、人形町から日本橋へ向かう途中、蛎殻町の裏道を通ってみた。

 昨年まであった看板建築の家もなくなり、ここも再開発が進んでいるなと思いながら歩いていたら、路地の奥に灯かり。まだ昼すぎなのになんだろうかと奥に進むと、明るく輝く玉に赤青白のストライプ柄の理容店の看板が置かれていた。

 こういう路地にあると、理容店というよりも散髪屋、いややはり床屋と呼びたくなる。ということで、今日のタイトルは蛎殻町の床屋。

| | コメント (2)

2008/05/31

鬼子母神前

 池袋と渋谷を結ぶ地下鉄副都心線が、6月14日に開通する。

8dsc06839 この路線は、埼玉県和光市から池袋を経由して渋谷まで、東武線、西武線と相互乗り入れし、2012年には東急東横線とも接続が予定されている。

 先日、その路線予定図をみていたら、鬼子母神の近くに駅が出来ることに気付いた。

 鬼子母神は、池袋・目白と早稲田の間に位置しているが、主要駅からの簡単なアクセス方法がなかった。これが鬼子母神の良さでもあったのだが、いままでは早稲田から都電にのんびり揺られながら向かっていた。そこに地下鉄が通ることになったのだ。

 地下鉄の新しい駅は、都電の鬼子母神前駅の近くにつくられ、駅名は雑司ヶ谷駅となる。

 ところが、すでに都電にも雑司が谷駅があり、これは雑司が谷霊園(永井荷風、泉鏡花はここに眠っている)の最寄り駅となり、鬼子母神前駅の隣りにある。つまり、同じ駅名(雑司が谷)だからすぐ乗り換えられると思うと、これが500メートル離れている。さすがにこれではマズイと思ったのだろうか、都電の雑司が谷駅の駅名を変更するらしい。
 
先日、その鬼子母神を訪れたら、ちょうど雨も上がり、新緑の木々の間から日差しがもれてきた。鬼子母神付近は、どこか古い東京がひっそり残されているような雰囲気がする。はたしてこの町は、地下鉄開通により、どのように変わるのだろうか。

| | コメント (2)

2008/05/16

湊にてPart2

 中央区湊の町が歯抜けになっている様子はすでに紹介したが、そこで見かけた3階建てを紹介しよう。

8dsc06892 もとは2階建ての長屋だったようだ。側壁に貼られたトタンの2階と3階部分の間に、屋根のような山形の切りかえしがあることからみて、3階部分は後から増築されたもの。その後、長屋が分断されて左右にあった家がなくなり、この3階建ての1軒家だけがポツンと残ったようにみえる。

 みるからに、これでは風が吹いても揺れるかもと思ったら、ちゃんと建物2階部分の四隅の壁から地面に斜めの柱がつけられている。

 それにしても、隣り同士互いに支えあっていた建物が切り刻まれていく様子をみるにつけ、そこに暮らしている人はどうなったのだろうか考えてしまう。建物を失い日当たりのよくなった木だけが大きく枝を広げている、その姿が健気なだけに気になる。

| | コメント (0)

2008/05/06

湊にて

 ここ3日ほど続いたぐずついた天気を一気に帳消しにするような、気持ちの良い晴天となった今日。吹く風もさらりとして部屋にいてはもったいないと、隅田川河口の水辺の町へ。

 亀島川は、茅場町付近で日本橋川から別れて隅田川に注ぐ、わずか1Kメートルほどの短い川。川の両岸は階段状のテラスになっているが、残念ながら遊歩道として整備してないので川べりにおりられず、道路を歩くしかない。霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋など、亀島川にかかる橋をながめながら隅田川へ向かへば、祭りが終わった鉄砲洲稲荷前に。

8dsc06891 ここは以前来たことがあり、そのころは周辺に看板建築の古い家が残っている落ち着いた町だったが、どうも様子が違う。かつて長屋だったものを分断したのか、側壁をブルーの波板でおおった家がポツリポツリと立っている。家がなくなった空き地部分に二段リフト駐車機が設置されているが、それも、すでにサビにおおわれている。見上げれば川向こうの佃島にあるタワーマンションが、ここもあのような街になるのだろうか・・・。

 東京駅行きのバスが来たので早々に飛び乗れば、バス車内に新川停留所の案内が流れる。新川は、かつて幸田文が嫁いだ酒問屋があった地だが、車窓からはビルが・・・。

| | コメント (0)

2008/05/03

旧安田楠雄邸をみる

 谷中の路地を通りぬけ千駄木にある団子坂をあがり、大通りを右に曲がると、景色は一転して静かな住宅街が広がっている。その道に面して旧安田邸がある。

8dsc06791 旧安田邸のパンフレットによれば、「安田邸は、豊島園の創始者であった藤田好三郎が大正7年(1918)に建築し、旧安田財閥の安田善四郎が大正12年に買い取り住まいにしていました。平成7年にご当主の安田楠雄氏が亡くなられ、平成8年に夫人が日本ナショナルトラストに寄贈したものです」とあります。

8dsc06775 和風建築に洋室の応接間がとりこまれた和洋折衷住宅は、3ヵ年の修復工事が行われましたが、建築当時の姿が非常によく保たれているそうです。厚みにバラツキがあるのでしょうか、ところどころ景色が歪んでみえる窓ガラスや、和風建築によく合っている照明器具やそのスイッチなども全てオリジナルのもの。窓や障子の建具も、細工などが目だ立たず簡素に見えますが、なかなか手の込んだ構造とのこと。

 簡素ながらも手の込んだという印象は、建物全体にわたっている。一番目の写真にある二階の小部屋(と言っても十分な大きさがあるが・・)は、凝った模様や飾りなど一切ないが、そのすっきりした格子が作り出す景色は、建具屋の素晴らしい仕事がうかがえる。二番目の写真にある長い廊下を照らす照明器具も、座敷の違い棚や欄間もじつにすっきりしたものだが、そのしっかりした作りの良さは、見るものの気持ちを落ち着かせる。

 この旧安田邸公開は、今週は5月3日、4日、7日の予定、この期間は、一階の客間で五月人形が展示されている。

| | コメント (0)

2008/04/30

丸窓のバス

 連休のはざ間の月末、たまっていた用事を片付けるために都心へ向かうと、東京駅前でちょっと変わったバスに出会った。

8dsc06667 地下鉄車内のポスターによれば、4月26日に運行を開始した東京駅から日本橋、秋葉原、上野、合羽橋、浅草、両国へ向かう新しい路線バス。料金は通常の都バスと同じ¥200、東京駅から毎時0分・30分の30分間隔で出発。

 気になるのは、このバスのデザイン。モダンに見えて、どこかクラッシック、洋のように見えてどこか和の要素も感じる。

 水平のリブが浮き出た銀色に輝くボディは、古いアメリカ映画にあったハイウエイを走るGreyhound Busのイメージに通じる。たぶんモダンな洋の印象は、この銀色ボディのリブがもつメカニカルな造形が影響しているのだろう。

 それでは和の印象はどこからだろうか?

 それは側面後部の丸窓の影響ではないだろうか?

 じつは、似たような造形を京都で見たことがある。京都洛北鷹が峰の光悦寺の近くに源光庵という寺がある(JR東海にその写真がありました)。その本堂に、「悟りの窓」と呼ばれる大きな丸い窓があり、ちょうど紅葉の時季だったが、この窓を通して見る庭は実に見事だった。その窓は、「禅と円通の心」を表すと言われているが、丸窓には、風景を整理してみせる不思議な力があるのかもしれない。

 さて、このバスの丸窓からは、どのような東京の景色が見えるのだろうか・・・。

 と、昨日はここまで書いたのだが、丸窓の建物はもっと身近でも見かけたように思い、過去に撮った写真を探してみた。

8dsc04563 これは景色を見るものではなく明り取りのためのようだが、根津にある根津教会にも大きな丸窓がある。根津教会のホームページによれば、”この教会は、1919(大正8)年に建てられ、その外観はヨーロッパ中世から教会建築にみられるゴシック様式の流れをくむ”とある。丸窓と宗教のあいだに、何か特別な意味や関係があるのだろうか、いずれにしろ仏教とキリスト教の建物が同じような丸窓をとりいれているのは興味深い。

8dsc06601 一般の住宅で丸窓を見た記憶はないが、店舗建築の例を身近なところで見ることができる。神保町にあった店舗長屋は、ほとんどが歯抜けのようになりビルに建て替えられたが、まだ当時の姿を残しているものがある。いまや二軒長屋状態だが、その左側「めがねは専門店」の看板をかかげる三鈴堂は、創業明治十二年のメガネ屋さん、その屋根の部分に丸窓がある。右隣りの店は四角いサッシ窓に改造されているが、この丸窓はオリジナルままで、かつてはこの丸窓がずらりと並んでいた(十一軒長屋)の古い写真がいまも残っている。

 さて新しいバスの話しから丸窓の話しに回り道してしまったが、これら建物をみると、丸窓は古くから東西の世界で取り入れられた意匠であることがわかる。「新しそうに見えて、どこかモダン・クラッシック、洋のように見えてどこか和」という印象は、このあたりからきているのだろう。

| | コメント (4)

2008/03/17

二連ポンプ:谷田川を行く

 陽気はすでに花見シーズンのような暖かさだった日曜日、出版社之潮(コレジオ)主催の「川の地図辞典」:出版記念ウォーク、「谷田川(やたがわ)跡をあるく」に参加。

8dsc06045 休日の駒込駅前の人の流れは六義園に向かう人ばかりだが、それとは逆に線路に沿って坂道を下る約20名のグループは、かつての谷田川の流れを目指して歩む。知らない人がみれば怪しげな集団だが、その実体は・・・川の地図事典の著者、出版社社長、地図の専門家、街歩き案内人、建築家、大学教授、カメラマン、アースダイバーなどなど、いずれもその筋(いや分野)で活躍されている方々ばかり。

 下流の根津付近で藍染川とよばれる谷田川は、昭和7年暗渠にされその上は道路となった。そのため、川の流れを直接みることはできないが、微妙にぐねぐねと曲がった様子は、今もかつての川筋の記憶を残している。霜降橋交差点からいったん谷田川から離れ染井付近へ向かい、狭い坂道を上がり下り、そしてまた上がり下り染井銀座に着けば、道は再び谷田川跡となる。なるほど谷田川は、岬のように突き出た台地にはさまれた谷のような低地、谷戸を流れていたことを足と体で実感する。

 さらに進み、台地の中腹に広がる染井墓地付近へ。彼岸前とあってお墓参りの方々もちらほらと、ここで参加者一同、一気に掃苔(そうたい)モードとなる。芥川龍之介、谷崎潤一郎などの小説家からはじまり、千葉周作、遠山金四郎など時代劇で知られる人の墓が近隣の寺に点在している。

 墓地で気付いたのだが、二基の井戸ポンプが設置されている。このポンプは今も現役らしく、筒先から水がしたたり落ちており、この付近に地下水脈があることを示している。谷田川の水源は、染井墓地付近にあったいくつかの小さな川の水が集まったものと言われているが、その水源をこの地域の湧き水と考えて良いかもしれない。実は、以前、紹介した東京外語大学の地にあった下瀬火薬製造所も、その排水が近隣の井戸を汚染した記録がある。すなわち、この地域の井戸が使用していた地下水脈は地表に近く、その一部は台地の中腹付近に幾筋か流れを作り、やがて一つに集まり谷田川となったのだろう。

 ところでこの井戸、利用者がそれほど多いとも思えないが、なぜ左右対称に二基も設置したのだろうか?二基は連結はしていないが、とりあえず二連ポンプとして記録しておく。

| | コメント (4)

2008/02/19

三田用水と海軍火薬製造所:谷田川を行く

 「昭和8年の地図を読む:谷田川を行く」で、”日本海軍は、下瀬火薬製造所を明治33年に滝野川に開所”と書いたが、この下瀬火薬製造所の歴史を調べていたら、三田用水沿いにあった目黒火薬製造所が浮かびあがってきた。今回は、この目黒火薬製造所と三田用水の話をしてみよう。

Photo_2 なんと、この目黒火薬製造所は、以前紹介した三田用水沿いの中目黒付近に、明治12年に建設を始め、明治18年に火薬の製造を始めている。ところが明治26年に、ここは陸軍に移管され、海軍は、明治33年に新たに滝野川に下瀬火薬製造所を開所するのである。

 海軍火薬工場の目黒から滝野川への移転の理由を述べた記録は見つからないが、そこには、二つの要因「三田用水の水争い」と「新型火薬への移行」があるように思える。

1)三田用水の水争い

 目黒区のホームページで紹介されている内容だが、目黒火薬製造所は、その動力を、三田用水から引き込んだ水により回す水車にたよっていたが。その製造所が大量に水を使うため、明治24年頃、近隣住民との間で三田用水の水分配の争いが起きていた記録がある。

 以下に目黒区ホームページの一部を引用する。

 「火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。」

 
2)新型火薬への移行

 「日本海軍火薬工業史の研究:小池重喜、日本経済評論社」によれば、”明治26年度「海軍省年報」は、「海軍ニ於テハ爾来下瀬火薬ヲ除クノ外火薬ノ製造ヲ廃止シタリ」と記している”。さらに続けて、”下瀬火薬は下瀬雅允が明治21年に創製、26年1月に海軍正式に制定されたが、同年3・4月頃は海軍造兵廠内で若干の試験的製造がなされていたに止まり、本格的な爆薬製造所は存在していなかった。”と記している。

 すなわち、海軍は、明治26年に新型火薬として下瀬火薬を正式採用し、それ以外の火薬は製造しないことを決めたが、まだ下瀬火薬を量産できる製造所がなかったのだ。

 この場合、下瀬火薬を製造するためには、既にある目黒火薬工場に新たな製造ラインを増設するか、既存の製造ラインの改造が考えられる。しかし、前述したように、目黒火薬製造所は、建設時に三田用水に玉川上水をひき入れて水量を増やしている。それでも水争いがおきるとなると、これ以上の生産量の増加は無理で将来性に不安があっただろう。

 このような状況をふまえて、新火薬工場の場所として選ばれたのが、既に陸軍の火薬工場が進出していた石神井川に近い滝野川付近であったと考えられる。

| | コメント (2)

2008/02/09

昭和8年の地図を読む:谷田川を行く

 前回の「フィールドワーク:霜降銀座・谷田川を行く」で、昭和の初め(昭和6年)ごろ、谷田川沿いに商店や住宅が増えて川の暗渠工事が始まった。また歩いてみると、町工場を背後にもつ下町の商店街にいるような気がすると書いたが、当時の谷田川上流周辺の様子を地図で見てみよう。

_3b_4 ここに載せたのは昭和8年の模範新大東京全図、昭和7年、滝野川町などが東京市35区に編入された直後に作られた地図だ。

 駒込付近(地図の右下部分)をみると、ミドリで囲んだ部分に霜降橋という地名が載っている。ここを起点に谷田川の上流方向をみると、青色で囲んだ部分に海軍火薬廠の文字がみえる。さらに地図の上をみれば、陸軍火薬廠、王子火薬製造所、十条兵器製造所、板橋火薬製造所など火薬・兵器関係の工場が並んでいる。このように、かつての滝野川・王子・板橋の地域は、軍関係の工場地域であったことがわかる。

 軍の工場があれば、それを支える民間の工場も当然あったろうし、工場で働く人々のための住宅や商店も周囲に必要になるはずである。もう一度地図をみれば、現在の霜降銀座とそれに続く染井銀座・西ヶ原銀座は、戦前は海軍火薬廠に隣接する地域と言えるだろう。昭和初期、火薬廠やその関連工場に勤務する人々は、この地域に住み商店を利用したように考えられる。

 さてこの海軍火薬廠とはどのようなものだろうか?

 時代は一気に明治30年代にさかのぼるが、日本海軍は、下瀬火薬製造所を明治33年に滝野川に開所し、のちにここを海軍火薬廠爆薬部とした。下瀬火薬は、海軍技師:下瀬雅允により開発された火薬で、その威力は日露戦争の海戦勝利に貢献したと言われている高性能火薬である。

 この海軍火薬廠は、昭和の初めに滝野川から移転し、昭和15年、その跡地に東京外語大学がおかれたが、その外語大学も2000年に移転した。跡地は、防災公園・福祉施設となることが予定されている。

| | コメント (2)

2008/01/30

フィールドワーク:霜降銀座・谷田川を行く

 週末に駒込にある霜降銀座を歩くと共に、谷田川の変遷を調べてみた。

8dsc05535 霜降銀座は、本郷通りを駒込駅から王子方面にむかう途中の霜降橋交差点のてまえを左折し、西ヶ原方面へむかう商店街。八百屋・魚屋・肉屋からはじまり、昔懐かしい洋品屋の看板をかかげる店などがある。霜降銀座のホームページによれば、”霜降銀座商店街は昭和31年に発足”とあるが、いまも発足当時の昭和の雰囲気を感じる商店街だ。

 霜降商店街につながる一連の銀座商店街は、暗渠となった谷田川の流れに沿っている。どの商店街の路地も、ゆるやかに曲がりくねっており、その道幅も広くなったり狭くなったりして、いかにもかつての川筋らしい。谷田川は、谷中付近を流れていた藍染川の上流にあたるが、谷中から藍染川上流をめざした様子を、森まゆみさんは、「不思議の町 根津」の”藍染川をたずねる”のなかに書いている。

 よみせ通りから、田端銀座、駒込銀座、霜降銀座、染井銀座を自転車でさかのぼった時の印象として、”よくもこんなに銀座がつづくものだとあきれながら、そうか「藍染川沿いは昔から商業路であったのだ」と納得した”としたと記している。この体験行は谷根千3号に掲載されたとあるから、これは今から20年前ごろの話しと思われるが、いまもそのまま通用する。

 ところで、この谷田川は、暗渠になる前はどのような川だったのだろうか、またなぜ暗渠にしたのだろうか?

 手がかりを求めて滝野川図書館で資料を探していたら、「谷田川改修ニ関スル請願書」の写しをみつけた。この請願書から昭和初め谷田川の様子がうかがえるので、その冒頭の部分を引用してみよう。

 「源ヲ巣鴨町及西巣鴨町ニ発シ本町大字西ヶ原、中里及田端ヲ貫流スル谷田川ハ近来其ノ両岸商街住宅地ト化シ之ヨリ放流スル汚水ハ同川ニ集注シテ悪臭紛々病毒ノ淵叢タルノ感アリ、一朝降雨ニ際会センカ本郷区駒込一帯ノ雨水ヲ合シ一瞬タチマチ濁流奔溢シテ居宅ヲ襲ヒ毎年ノ浸水家屋千数百戸ヲ算シ其惨憺タル被害名状スヘカラザルモノ有之候・・・」 この請願書は、滝野川町長の名で昭和5年6月に作られている。

 請願書ということで、多少おおげさに書いたかもしれないが、昭和5年当時、”谷田川両岸に商店や住宅が増え、そこからの汚水が集まり悪臭プンプン、病毒の巣”だったと記述されている。このことから、昭和初め、谷田川沿いには既に住宅と商店が建ち並び、川は、悪臭がひどいドブ川状態であったことが分かる。これは現在の言葉でいえば、生活排水による汚染がひどかったとなる。また”ひとたび雨となると浸水家屋が千数百戸にもなった”と、水害も発生していたこともうかがえる。これも現代風にいえば、大雨のバッファとなる田畑や野原が少なくなったことにより、雨が一気に水害となってしまう都市型災害が発生していたことになる。すなわち昭和初めに、谷田川流域で都市化がおきていたことになる。

 谷田川は、このような状況を改善するために、川を暗渠にして、その上を通路とする改修がされたのである。その工事は昭和6年から始まり、予算は92万と記録されている。

 昭和初めに東京の郊外各地でおきた農村から宅地への急激な転換は、関東大震災をきっかけに、都心から比較的被害の少なかった郊外へ人が移動したためと言われている。谷田川流域でも同じことがおきたと思われるが、これに加えて、震災前から王子にあった兵器廠とそれを支えた周辺の軍需工場の影響が加わっているかもしれない。駒込や西ヶ原は、高級住宅地として知られるが、実際に谷田川流域の商店街を歩いてみると、左右の狭い路地には家が密集し、まるで町工場を背後にもつ下町の商店街にいるような気がするからだが。これについては、今後の追加情報を待ちたい。

追加情報:

1.昭和8年の地図を読む:谷田川を行く
2.三田用水と海軍火薬製造所:谷田川を行く

| | コメント (2)

2008/01/11

フィールドワーク:尾根を行く川

 masaさんのブログで紹介されていた「川の地図辞典」(菅原健二、之潮社)を岩波ブックセンターで購入してきたので、早速、目黒区のページを開いてみた。

8dsc04078_2 以前から目黒区青葉台にある、西郷山公園の滝が気になっていたのだ。夏になると公園の中ほどの水路から水を流し、公園下へ滝のように落ちている。大正・渋谷道玄坂(藤田佳世、青蛙房)によれば、この地は西郷従道の屋敷跡で、かつて滝があったことが書かれている。また目黒区のホームページによれば、西郷従道邸は三田用水の水を引き込んでいたとある。

 西郷山公園付近を歩いた人は分かると思うが、ここは富士山を見ることが出来るほどの高台にあり。その入り口は旧山手通りに面し、急斜面に沿って下ると目黒川に近い菅刈公園に至る広い地域だ。さて、三田用水はどこを流れていたのだろうか?

 「川の地図辞典」P182、183を開いたら、その答えがあった。

 三田用水は、国道246を大和田坂上付近で横切り、旧山手通りに並行して走り、西郷山公園の入り口付近で旧山手通りに合流している。ということは、以前、”Y字路の秘密”で紹介した左側の道そのものだ。三田用水は、こんな尾根のような場所を通っていたのだった。この事実は、山の手に住む人にとってはあたりまえの事かもしれないが、日頃下町の川や堀に親しんでいる者には目からウロコが落ちる思いだ。下町・低湿地では、水は、その地域で一番低いところを流れているイメージがあるので、川は谷間を行くものと思い込んでいたのだ。

 しかし、用水や上水となると川を取り囲む地形は全く違う。長距離かつ広範囲に水を分配するためには、尾根のようになるべく高い所に水路を作り、そこから低地向かって流すのが合理的だし自然だ。ヨーロッパにある谷間を横切る石で組まれた水道橋の景色も、同じ発想によるものだろう。川というのは、その成り立ちと用途に応じてそれを取り囲む地勢は大きく違うようだ、このあたりを調べはじめるとなかなか奥深いものがあるかもしれない。

8dsc04239 以上のことをふまえて、もう一度、「川の地図辞典」P182,183とこのページの写真を見直してみよう。カメラは西郷山公園の北側入り口付近、ちょうどY字路の交点に立ち北へ向いている。この場所は、”Y字路の秘密”で紹介したように二重Y字路で、画面左側の先に急な下り坂があり、カメラの立つ場所は坂の頂上となる。さらに画面に写る左右の道路を比べると、右側の道は先のほうまで平坦だが、左側の道は奥にいくほど高くなっている。すなわち左側の道は、この付近では坂の頂上付近を、画面の奥から手前に下る尾根のような地形であることが分かる。

 「川の地図辞典」で位置を確認すると、この左側の道こそ三田用水そのものだから、川は奥から手前に向かって尾根に沿って流れていたと考えて間違いないだろう。

| | コメント (10)

2007/11/21

路地の条件

 銀座で用事を済ませ駅へ向かう途中、近道を探していたら路地に出会った。

8dsc04750 道というよりビルとビルの間の隙間は、一人がやっと通れるほどの幅しかない。この路地にあるのは、ビルの裏口だけかと思って進むと、どうみてもこの路地にしか出入り口がないお店がある。さらに進むと、デザイン事務所だろうか、開いたドアの向こうに図面などを置いたテーブルが見える。

 さて、この路地は銀座の何処だろうか?家に戻り、銀座路地マップを開いてみたが、どうもそれらしい路地が見つからない。たぶん7-8丁目あたりだろうが、二度と同じ路地を見つけ出せそうもない。あれは都会の迷路だったのだろうか。

 銀座に限らず路地は、よそ者が入るのを拒むような雰囲気がある。しかし、ひとたびそこに馴染んでしまうと、なぜか再び足を運びたくなる。

 これは辞書に書かれている路地の定義とは違うかもしれないが、

1)食事やお店など立ち寄る場所のない路地は、たんなる通路であって路地ではない。

2)路地の道幅は、狭ければ良いというものではない。見知らぬ人が、お互いに気兼ねなくすれ違える程度の道幅がほしい。

3)そしてこれをあげると途端に場所が限られてしまうが、路地には、季節の移り変わりをさりげなく表す、花木や草花がなければならない。

 さて、これらの条件にあてはまる路地はどこにあるだろうか・・・。

| | コメント (0)

2007/11/01

ストライプ

 このごろは外装だけを見ただけでは、何の商売だか分からないお店が多い。

8fdsc03475_2 以前、日本橋浜町付近で見かけた理髪店は実に分かりやすかった。お馴染みの赤白青ストライプのサインポールを店先に置き、玄関周りは緑のタイル仕上げ。加えて日よけのテントは、赤白青のストライプ模様という念の入った組み合わせで、一目で理髪店と分かる。

 いろいろ凝るより、こういう分かり易いお店が、このごろ気になっている。

| | コメント (0)

2007/10/25

銀座ゆらぎビル

 先日は三原橋で建物全体をネジッたようなビルを見かけたが、銀座2丁目ではこんなビルが建築中。

8dsc04682 この建物全体を波打つ曲線で構成するデザインを何と呼ぶのだろうか?

 この曲線を見ていると、どことなく緩やかなリズムがあるように思える。もしかして1/fゆらぎだろうか、そうであれば、この建物の中にいるとアルファー波がよく出て新しい発想ができるかもしれない。この建物のデザインは、そんなことを思わせる。

| | コメント (2)

2007/10/18

蔵前橋

 浅草橋の総武線鉄橋横から隅田川テラスに下り、上流に向かい歩くと前方に黄色い橋が見えてくる。

8dsc04607 蔵前橋は、下流の両国橋、新大橋や永代橋が江戸時代からあったのに比べれば新しい橋と言える。橋のプレートにも記されているが、震災復興により、昭和2年に新設されている。

 蔵前の名は、ある程度の年齢の人にとっては、蔵前国技館があったことで記憶されているだろう。私も子供の頃、相撲の時期にこの前を通ると、力士名を書いたノボリが何本も立っていたこと、またTVのプロレス中継が行われていたことを覚えている。

 ところで現在の蔵前付近は、これはという見所が少ないが、初めてこの地を地下鉄で訪れる人が必ず驚くことが一つある。

 蔵前駅は、都営地下鉄浅草線と都営地下鉄大江戸線の乗換駅になっているが、この両線の駅は地下ではつながっていない。乗り換えるためには、いったん地上に上がり江戸通りを250メートルほど歩かなければならないのだ。

 地下鉄の乗り換えが複雑な駅としては、大手町、赤坂見附・永田町、溜池山王・国会議事堂駅などが知られているが、これらは各線が地下でつながっている。こう書いている私もその一人だったが、蔵前駅の地下鉄なのに地上を数百メートル歩くという意外な展開にとまどい、出入り口でウロウロしてしまう人がいる。

| | コメント (2)

2007/10/17

ガウディ堤防

 夕暮れが近づいた隅田川沿いを歩いてみた。

8dsc04509 浜町公園から隅田川の遊歩道へおり上流へ向かう。頭上に高速道路があるためクルマの通行音がうるさいが、しばらく歩くと高速道は反対側に移り川景色が開け、かすかな波音も聞こえるようになる。

 前方の両国橋の姿がはっきりしてくる辺り、堤防に扉がある。扉の周囲の壁はモザイク模様のタイルで飾られ、そこに丸い穴が点在し、その前にベンチが置かれている。ここまで、ずっとコンクリート打ちっぱなしの堤防を見続けてきたので、そのガウディのような曲線の造形に、思わずほっとする。

| | コメント (4)

2007/10/16

柳橋夕景

 先日、masaさんのブログで紹介されていた柳橋を歩いてきた。

8dsc04521 浅草橋問屋街と隅田川にはさまれた柳橋は、昭和30年代中頃までは料亭が立ち並ぶ街だった。その頃は、川辺に面した料亭には船着場があり、直接船に乗り込むことが出来た。

 現在の柳橋は、神田川に並ぶ屋形船を除けば、水辺の町という雰囲気はあまり感じられないが、昔の町の様子が、いくつかの東京本に記録されている。たとえば「新版大東京案内」(今和次郎)の花柳総覧によれば、柳橋は芸者屋:183、芸者数:366と記されている。さらに「東京風俗帖」(木村荘八)では元柳橋、「大東京繁昌記:下町編」ではこの地に一時住んでいた島崎藤村の話しが出てくる。日本映画では、「流れる」(原作:幸田文、監督:成瀬巳喜男)は柳橋が舞台になっているそうだが、残念ながら私はまだ見ていない。

 ところで、私の記憶では、昭和40年代終わり頃の柳橋を含めた浅草橋付近は、衣料品、玩具、人形、店舗装飾、文房具など、さまざまな問屋が並んでいた。これは小売店だったのかもしれないが、たしか楽器屋もあった。どのお店も商品が店先や通路まで山積みで、賑わっていた。今、浅草橋付近を歩くと、問屋街は、すっかり様変わりしてアクセサリーパーツを売る店などオシャレで明るい店が増えたのに驚く。唯一、柳橋の上から眺める夕闇の神田川の景色だけが昔と変わらない。

| | コメント (2)

2007/10/13

夏の忘れ物#2

 天気予報で、今日から寒くなると言っていたのでジャケットをもって出かけたが、結局一度も着ることはなかった。今日は久しぶりの谷中散歩。

8dsc04530 日暮里から御殿坂を上り谷中方面へ向かへば、墓地横の路地を出たところで人力車に追い越された。週末になると御殿坂で客待ちをしている人力車だろう、幸田露伴の住まいがあったなど路地の案内をしながら墓地の方向へ曲がっていく。その後を追うように墓地の真ん中の道を進めば、グループで散歩をしている団体にすれちがった。皆さん、一眼レフカメラを提げていたので写真サークルだろう。

 彼らが立ち去った道を、白いものと橙色のものがひらひらと横切っていった。この時季でも蝶がいるのかと驚きながら、その跡をつければ、黄色い大きな花が数輪。塀をみれば、夏の忘れものの小さなひょうたんが。この頃、季節感が読めなくなったと思うのは私だけだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/12

東京遊覧

 昨日、本屋で見つけたのが「東京遊覧」(日本文芸社)。

Tokyo_yuran この本は、その帯に「絵はがき写真に見るメトロポリスの変遷」とあるように、明治・大正・昭和、おもに戦前の東京風景の絵はがきを集めている。

 江戸風景や美人の版画が江戸時代のお土産品であったように、絵はがきは、明治・大正・昭和と東京のお土産品として作られてきた。たぶん、いまでも東京タワーあたりのお土産屋に置いてあるかもしれない。

 昭和初期までの絵はがきは、内容がじつに豊富で、名所旧跡から、この本には入っていないが風俗や関東大震災など災害の記録などもあった。絵はがきにはコレクターが多くいて、古書展でも熱心に絵はがきを調べている人を見かる。なにしろ絵葉書は数が多いので、いざ体系的に集めようとすると、これはなかなか大変な作業なので、このようにまとまっていると助かる。
 
 この本がカバーしているのは主に戦前の東京なので、私は、全く知らないものばかりだが、いままで文章だけでで読んできた古い東京風景を知る参考になりそう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/11

銀座ミルクレープビル

 事務手続きのため芝にあるオフィスへ外出した帰りに、銀座に立ち寄ってみた。

8dsc04465 開発が盛んな銀座だが、三原橋でもビルが建築中。この造形は、どこかで見たことがあるが何だっけ?そんなことを考えながらの帰り道、カフェの前を通りかかったとき閃いた!そうだミルクレープだ!薄く焼いたクレープ生地の間にモカクリームを挟み、それを何層にも積み重ねたケーキ。それを四角にカットし、片面だけぐりっどネジッたような造形だ。今は仮称ピアスビルとなっているが、通称ミルクレープビルとしてもよさそうだ。

 それにしても今日は快適、暑くもなく寒くもなく青空もぬけるよう。やはり、これからはなるべく外に出てみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/06

Y字路の秘密

 カフェのある公園近くにY字路とY字路が並んでいるところがある。

8dsc04211 Y字路に立つと、右に行くべきか左に行くべきか迷い、どこか不安な気持ちになるときがある。ひとたび左右の選択を間違えると、二度と再び戻れない分岐点として認識しているからだろう。

 一方、Y字路を逆から進めば、これは二つの道が一つの道となる合流点となる。同じY字路でも、自分の視点をどこに置くかで気分は大分違ってくる。

 そういえば横尾忠則に、Y字路をテーマにした作品がある。薄暗い街灯の明かりに浮かび上がるY字路とそこに建つ家を、描いていた。あれは分岐点として描いたのだろうか、それとも合流点だろうか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/10/01

謎の自転車専用信号機

 自転車専用信号機というと、簡単な形式なものを考えてしまうが、どうもそうでもない。

8dsc04327 人形町再開発ビルが完成し、その周辺で道路工事がすすでいる。先日、その地域を歩いたら、大橋通に接する路地の入り口で写真の信号機をみつけた。

 入り口と書いたが、クルマは一方通行で、ここは出口になっている。ということは、これは一方通行の道へ逆進入する自転車のための信号となるが、だいたいいつも大橋通へ出るクルマが出口をふさいでいるので、逆進入はまずできそうもない。立派な信号機だが、これで本当に役立つのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/24

窓を開ければ煙突が

 煙突には、周囲の景色から飛びぬけて高い空にそびえているイメージがある。お化け煙突のような巨大なものから、近所の銭湯まで、煙突は、周りの屋根よりはるか高く空にそびえていた。そんなイメージも、いまは昔の話になってきた。

8dsc04306 表通りにビルが立ち並ぶ日本橋蠣殻町も一歩裏通りに入ると、木造家屋が残っている。わずかに残った家が、どのようになったか確認するため歩いてみた。銅版で覆われていた木造の家は、消えて駐車場となっていた。近くの歯科医院のビルは健在だったが、その通りの奥ではビルを建設中。さらに裏通りを進めば、小さな空き地ができて、その奥にビルに接してそびえる煙突が見える。

 手前に家があったころは気づかなかったが、この煙突はこの先にある銭湯のものだ。銭湯ができたころは周辺では一番高かったと思うが、回りのビルに取り囲まれた結果、ごらんのようにビルより低い有様になったのだろう。

 ところで銭湯はどうなったのだろうか?表に回れば、ちょうど通りを歩いてきたお年寄りが銭湯の入り口に向かい、同時に中から湯上りのお客さんが出てきた。どうやら銭湯は、今日もしっかり営業している。まずは一安心だ!でも、次は・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/22

旅の合い間に

 ここ2週間ほど出張続きだった。出張といっても一ヶ所に長期滞在するのでなく、一泊ないしは二泊しては東京に戻り、すぐにまた別な場所へ移動という、まるでミニ旅回り一座というか、新人演歌歌手のキャンペーン活動状態。

8dsc04250 出張先は、もっぱら関西方面なので、新幹線を利用する機会が多い。東京駅か品川駅から新幹線に乗車するが、このごろは仕事先近くの渋谷駅で切符を買い山手線に乗るので、どうしても品川駅を利用する機会が多くなっている。

 昨日も、大阪から「ひかり」で帰ってきたが、乗ってから車内アナウンスで品川駅に停車しないことを知った。こうなれば東京駅から山手線に乗り換えるところだが、ちょうど昼食時だったので東京駅丸の内側に下車。改札口を出てからぐるっと見回せば、回りの景色がすっかり変わり、駅舎自体も一部が工事用の壁で覆われている。そういえば、以前、駅舎復元のニュースがあったが、その工事がすでに始まっている。

 建物の復元といえば、ヨーロッパの旧市街の保存活動がある。先日もクロアチア観光のテレビ番組があったが、アドリア海に面する旧市街ドブロニクの景色は実に美しい。そのドブロニクは、クロアチア内戦でいくつかの建物が破壊されたが、いまは完全に復元されて、わずかに屋根瓦の色の濃淡に内戦の痕跡を残すのみだ。第二次世界大戦で破壊されたドイツの都市もそうだが、旧市街と呼ばれる地域は瓦礫の山のような状態となっても、完全に戦前と同じように復元している。

 日本の場合、震災、戦災で多くの建物が破壊されたが、元通りに復元しようという計画があったのだろうか?東京をみれば、銀座周辺の川は、戦災で大量にでた残土の処理をかねて埋められたそうだし。建物も、損傷がわずかだったものは修復されたが、ほとんどは建て替えられたようだ。いまも東京で再開発が行われているが、古い建物の正面部分など一部を保存することはあっても、完全建て替えが多い。この古い建物に対するヨーロッパと日本の差は、どこから来るのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/09

人形町・須田町・淡路町

 土曜日、人形町へ買い物に向かったが、明治座帰りのおばさん達の人出とかさなり、目指すお店のレジには長い列ができていた。人出が減るまで近くで少し時間を過ごそうかと思ったが、ちょうど水天宮の角に秋葉原行きのバスが見えたので、それに飛び乗り淡路町へ向かうことに。

8dsc04173 須田町の交差点に立つと通りに面して古いビルがある。たしか生地屋さんだったはずだが洋服屋だったかもしれない、休日はシャッターが完全に閉まっているので確かめようがない。一階と二階の境目付近に、その昔のラーメン丼のふちに描かれていたような模様が並んでいるので多少目をひくが、かつては、どこにでもあったような普通のビル。しかし、このビル入り口に立ち、ひさしを見上げるとつい立ち止まってしまう。

8dsc04175 ひさしの下側に四角の中に円形と細かい模様が入った照明カバーが見える。ビルの外観はいたってシンプルなのに、この部分のデザインはなかなか凝っている。これを見ると、江戸っ子が羽織の裏側に凝ったことを思い出す。決して派手ではないが、目立たないところに凝っている。

 そんな思いにひたりながら淡路町に向かえば、なぜかこちらの店も混み合っている。しかも品揃えがいつもと違うような気がする、数はやたら多いが種類が少ない。しかも目的のものが売り切れで、ちょっとがっかり。気を取り直して別のものを買い自宅に戻り夜のテレビを見ていたら、「淡路町」が特集されており、私が買い物をしたこの店も登場していた!もしかして、TV放送後に押し寄せるお客にそなえて品揃えを変えていたのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/09/01

あの日の銀座

 ようやく猛暑も一段落したのか、今朝は、窓から流れ込む空気がすこし冷たく感じた。気温はまだ高いが、今までが暑かったので、わずかな涼しさが心地よい。さて、今回アップした写真は、数年前に銀座で撮ったもの。

8ginza_wako 最近建設されたビル、とくに進出が目立つブランドショップは、建物全体をガラス系の壁でおおったものが多い。ガラスだから開放感があるかと思うと、微妙にスモークがかかっていて外から内部をうかがうことが出来ないようにできているし、また外に向けて開放されている窓もない。

 銀座4丁目にある和光、そのウインドウは季節毎に模様替えが行われ、そこを通る人に季節のうつりかわりを知らせてくれる。時々刻々と変わる日差しにおうじて、その窓は様々な表情を見せるとともに、夕暮れ前の一瞬、鏡となり銀座の街を映し出す。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/08/26

あの日の喫茶店

 久しぶりにアップした写真は、以前、人形町で撮ったもの。

8dsc03588 人形町はよく通るが、いつも週末ばかりでこの喫茶店も閉まっている。ところが、たまたま平日にこの前を通ったら、このような看板が置いてあった。Coca ColaでなくDr Pepperというのが珍しい。その下に書かれている、その日のメニューもいかにも町の喫茶店という感じがしてウレシクなった。

 その昔、喫茶店看板の定番は、UCC,KEYCOFFEEなどのコーヒーメーカーの名前が入ったものだったが、個性的な看板もたくさんあった。いまも思い出すのは神保町にあった桃牧舎、大きな桃の実を二階からぶら下げていた。あのメルヘンあふれる看板と、アーチ窓をもつ古い店のギャップが面白かった。隣りのキッチンヤマダも古い建物だったが、すべて消えてしまった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/08/05

亀久橋(深川冬木・平野)

 運河が少なくなったとはいえ、深川はいまだに水の町であり、いまも昭和初期に架けられた橋が数多く残っている。

8dsc03559 関東大震災は、隅田川をはじめに深川地域の橋に大きな被害を与えた。たとえば現在の永代橋や清澄橋は、震災復興事業としてそれぞれ大正15年、昭和3年に架けられたが、これらに加えてこの時期にたくさんの橋が架けられた。下町文化No.238(江東区教育委員会発行)によれば、「深川区・城東区では昭和元年から7年の間に154もの架けられ、特に昭和4、5年で105橋と集中して架けられました」とあるように、その数は非常に多い。

8dsc03557 深川仙台堀川にかかる亀久橋は、昭和4年12月に完成した、これといって目立つ橋ではないが、よく見れば柱の一部に色ガラスを埋め込んだり、鉄橋上部もまっすぐな鉄骨そのままでなく曲線を組み合わせてデザインしている。震災復興という苦しい状況にあっても、画一的にせずにそれぞれの橋ごとにデザインをし、それを実現した人々はどのような考えをもっていたのだろうか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007/07/29

夏祭りの季節がやってきた!

 久しぶりに深川を歩いてみた。いつもどうりに、森下から門仲へ向かうコースだ。

8dsc03467 森下で蕎麦を食べ、一気にバスで門仲に移動し、永代通り、深川不動、富岡八幡宮と回れば、その風景が少し変わってきたのに気づく。かつて魚屋や焼き鳥屋があった本屋横の路地は、すっかりふさがれて工事準備中であった。たぶんビルになるのだろう。永代通りから牡丹町へ向かえば、大横川にかかる巴橋へさしかかる辺りで祭囃子が遠くから聞こえてくる。夏祭りの練習が始まったのかと思いながら、さらに進めば深川住吉神社の祭であった。

 世話人の方によれば、この神社と境内に置かれた小社や石の古い記録は残っていないそうだが、かつてここが佃漁民の地であったことの名残で、佃島住吉神社の分社とされている。境内に置かれた狛犬もその由来が不明だそうだが、小さいながらも鋭い顔つきは、のんびり構えた大店からの寄進でなく、どことなく漁師さんなど、いきのよい人々によるように思わせる。

 今年の富岡八幡の例祭は8月11-15日、森下にある深川神明宮の例祭は8月12日である。どちらも、今年は陰祭りなので神輿の連合渡御などはないが、12日を中心に町内ごとの祭りが予定されている。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/06/21

上村坂

 仕事場のある一帯は坂道だらけで、この季節になると、ちょっと歩くだけで汗をかいてしまう。

8dsc02980 上村坂(かみむらさか)は、代官山から目黒川に向かう坂道だが、昼でも薄暗い目切坂とは対照的に明るい景色をもっている。わずかに折れ曲がっているが、ほとんどストレート近いので、下から見上げると非常に長く感じる。

 実際、この坂道を上がってみると、日頃の運動不足も一因かもしれないが、そのキツサに驚く。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

2007/06/20

風を見る

 松風という言葉がある。手元にある新明解国語辞典によれば、1.「松に吹く風(の音)」に加えて2.「(茶の湯で)茶がまの煮え立つ音」とある。どこか分かったようでよく分からない説明だが、そもそも松に吹く風の音とは、どのようなものだろうか。

8dsc02597 何々の音と書くだけで、その風景が浮かぶものがある。有名なところでは、芭蕉の俳句にある「古池や蛙飛込む水の音」があるが、これなどは実際に音を聞いたことはなくても、いかにも静かシーンを思い浮かべる。

 我が家から少し歩いたところに、古い松並木がある。数はだいぶ減ったが、今も残る何本かは二階屋の屋根をはるかに越える高さがある。そのどれもが同じ方向に傾いている。もちろん風の影響だと思うが、この場所は海辺から大分離れているので、いつも一定方向の風が吹いているようには思えない。音もなく、頬をなでる空気の流れも無いが、それでも、この風景をみると松風の存在を感じる。それは耳で聞くよりも、松風のイメージをより強く伝えるような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/15

青空の下の十字架

 今朝は、いつもより少し遅めに起きたので、駅に向かうころにはすっかり日差しが強くなっていた。例年、梅雨入り直後に快晴の日があるが、今日は、まさしくそのような天気だった。

8dsc02940 踏み切りで電車待ちをしているあいだに空をみれば、青空にハケで刷いたような白い雲が流れている。その雲の端がキレイに青空に溶け込む様子は、まるで秋空のようだった。モクモクとそびえる夏の入道雲は、力強く激しい印象だが、銀色の十字架が輝く教会の屋根のはるか上に拡がる青空と白い雲は、どこか爽やかな印象がある。

 それにしても、こういう風景を見ると、日頃している仕事が小さく見えてしまう。自然が作り出す造形と色は、じつに見事だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/14

目切坂

 旧山手通りの代官山から山手通りに抜ける坂道がある。

8dsc02918_1 坂を下り振りかえれば、オシャレな代官山の裏とは思えないような山道の風景が目に飛び込んでくる。プロのドライバーにはよく知られているようで、ときどき宅配便のトラックやタクシーが、ものすごいスピードで下っていくが。交通が途絶えたときは、23区内とは思えないような静かな山道風景に戻る。この坂道「目切坂」は、「タモリのTOKYO坂道美学入門」では通勤の抜け道として紹介されているが、やはり、ここはゆっくり歩くのが一番だろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/13

壷庭か?

 坪庭は、もともと京都の町屋の奥などに作られた小さな庭のことだが、いまはマンションや住宅内に作られた小さな庭も坪庭と呼ぶらしい。

8dsc02923 今朝、ビル前の小道に小さな小さな庭を見つけた。ちょうど缶ビール程度の太さのパイプが道路との境に何本かあったが、その中の一本が長い間抜かれたままになっていた。その穴が埋まり、小さなクローバーを下草にして、その中心に葉の大きな草が生えている。これこそ究極の自然派坪庭だろう。ここまでいけば壷庭かな・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/03

透明なとき

 土曜日、買い物のため日本橋付近を歩いていたら、ビルを照らす日差しが作る蔭が深かく、ビルの壁面に刻まれた模様を浮き出させていた。はるか遠くにある、銀座8丁目の先にそびえるビルもくっきり見えている。

8dsc02827 数日前にあった激しい雨が、空の汚れを洗い流したのだろうか、日差しがきれいに見える。日本橋から人形町に移動すると、景色がより透明になったように感じる。空が広くてとても気持ちがよいな・・・、と思っていたら工事風景が。
 正面にある和菓子屋さんの裏には飲食店、さらに路地の角に靴屋さんがあったはずだが、どうなったのだろうか・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/28

消えた風景

 以前紹介したジャスミンツリーのある路地を、10年前に撮影したものが見つかった。撮影位置が少しちがうので、ジャスミンのある建物は映っていないが、その先にある松栄亭の先代建物が映っている。

6shoei 一番手前にある煉瓦作りのビルは、防護網がかぶせてあるためボンヤリ映っているが、美しいステンドグラスがあった同和病院の一部だろう。交差点にあるミドリ色の日よけは、今は反対側に移転した加島屋。この一角を見ると、全ての建物が建て替えられている。わずか10年のあいだにすっかり風景が変わったことが、この一枚の写真が示している。わずか10年、されど10年、この変化にあらためて驚いてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/23

赤い屋根の西洋館

 西洋館というと謎のという言葉を頭に付けたくなる。子供の頃読んだ怪人二十面相の影響だろうか、西洋館はいまも心躍る存在だ。

8dsc02716 隣りの駅に向かう途中、住宅街の小道に緑のツタにおおわれた赤い屋根の西洋館がある。古い住宅地で、ときどき見かける玄関脇に付け足された洋風の小部屋でなく、二階建ての本物のバルコニーをもつ洋館だ!先日、買い物帰りにその洋館に立ち寄ったら、洋館のご主人から「よろしければ中を見ませんか」との話しがあったので、早速見せていただいた。

 多角形の玄関ホールに入ると、正面に広い応接間、左右に小部屋と通路があり、通路の先に二階に上がる階段がある。この洋館は、現在のご主人の祖父にあたる方が、大正末から昭和初めに応接用に建てられ、その後、ご両親が住宅として使われていたそうだ。内部構造は、いまも新築当時とほぼ同じ状態を保っており、ドアや階段などは美しい形を保っている。壁紙は張り替えられているが、天井から釣り下がるガラス製電球ランプなどは、当時のものがそのまま使われている。

 かつて、この付近には数棟の西洋館があり、市に移管されて残ったものもあるが、ほとんどは取り壊されてしまい、現在も個人所有で残っているのはこの家だけらしい。

 この西洋館は、いまは隣りにコンサートホールが建てられており、週末に開催される音楽会や無声映画の会に訪れた人々に利用されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/20

深川・佃町・住吉神社

 中央区佃島は、江戸時代に摂津(現在の大阪)佃村の人々により作られ、そこにある住吉神社の祭りは都内でもよく知られている。ところが、これは初めて知ったのだが、”大阪の佃に住吉神社は存在しません。そこに在るのは田蓑神社という神社です”との話がmasaさんのブログで紹介されている。その真相は、masaさんのブログを見ていただくとして、深川にある住吉神社を紹介しよう。

8dsc02744 じつは深川にもかつて佃という町があった。深川住吉神社由来によれば、「享保4年に富岡八幡の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹二三丁目にあたり、ここに佃島住吉神社から分霊された小祠が祀られている」とある。この深川住吉神社は、いまも牡丹町に小さな祠としてあり、その境内には力石に混ざって佃町の文字が彫られた石がある。

 東京湾周辺の歴史をみると、その開発者に摂津出身の記述をみることが多い。砂村(砂川)、深川、佃島、野毛、久里浜、これらの地は、みな江戸時代に摂津から来た人々が開発している。こうしてみると、まるで「江戸っ子だってね、先祖は摂津の出よ!」というセリフが聞こえてきそうである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/15

路地奥の冒険者

 子供頃、路地奥には冒険があふれていた。

8dsc02613_1 薄暗くて寂しそうな路地の奥は、なかなか近づきがたい存在でドキドキしたが、行き止まりのように見える路地をふさぐトタン塀に小さなスキマがあった。そのスキマに潜り込み、さらに進むと大きな石が置かれた原っぱがあった。元は建築現場だったのだろうか。しかし土台ができたところで中止され、だいぶ長い年月が経ったらしく、その頃は、一面の雑草の中に大小の石が点在する原っぱになっており、子供達の遊び場になっていた。

 私鉄で二駅ほど離れた町に、古い料理屋さんの入り口につながる細い路地がある。そこに路地があることは、だいぶ以前から知っていたが、ずっとそこは行き止まりだと思っていた。しかし、先日、その料理屋さんの路地を突き当りまで進み、左に曲がると、石垣に沿って細い道がつながり、抜けられることが分かった。子供の頃は、あれほど路地奥を探検していたのに、大人になってからは、路地の入り口だけ見て、その先に進まずに抜けられないと決めていた気がする。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/13

東京の祭り(蘇る地霊)

 土曜日の午後、地下鉄神保町駅から靖国通りに上がったら、いきなり祭囃子が聞こえてきた。神田祭りだ!

8dsc02685 神田明神の氏子範囲は広くて、神田付近はもちろん、日本橋三越や水天宮付近まで拡がっている。しかし西の端にある神保町付近は神田と言われながらも微妙で、水道橋寄りは三崎神社の氏子になっているようだ。駿河台で用事を済ました後、通りに出たら、ちょうどお神輿が駿河台下の交差点を進んでいるのが遠くに見えた。

 回りはビルになり町の名前も変わっても、祭りとなると古い町名で皆が集まる。祭りは、ふだん隠れている、古い時代の境界というか地霊のようなものを蘇えさせる。五月の東京は祭りの季節、神田祭り、浅草三社祭と続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/02

ジャスミン・ツリー

 久しぶりに地下鉄小川町駅近くに用事があったので、帰りに淡路町にあるジャスミンの木を見てきた。

8dsc02593 神田松栄亭近くの路地に二階家の屋根に届くようなジャスミンの木がある。神田祭りの準備風景を街角でも見かけるようになるこの時季は、ジャスミンの開花時期でもあり、付近に独特な甘い匂いをただよわせている。

 ジャスミンは総称で300種類程度あるそうで、匂いのないものもある。東京の路地で見かけるのはハゴロモジャスミンというもので、これは、ジャスミンティーに使用されるものとは異なる種類、この花を摘んでもジャスミンティーにはなりそうもない。

 なお、このことは作曲・作詞した尾崎亜美さん自身が以前語っていたが、「オリビアを聴きながら」では、ジャスミンは”眠りを誘う”と歌っているが、本当は、ジャスミンティーは目を覚ます効果があるらしい。

追記:2009年4月

 淡路町のジャスミンツリーは、建物・駐車場とともに消え、その場所にビルが建ちました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/01

美しい裏窓

 もう一月も前になるが、花見のために真間川に向かうために古くからある住宅街を歩いた。すでに建て替えがすんだようで、ほとんどの家が新しくなり路地は明るい。それでも、ところどころに石垣に囲まれた古い大きな家が残っており、そこだけ路地の日陰が大きい。

Photo_14 門の奥に大きな木が茂り、木々のあいだに玄関の一部だけが見える、屋敷という言葉がピッタリの家があった。家の周りを少し歩くと坂を下った路地に裏口の門、そこからは屋敷の裏側に建っている二階家がみえる。路地から見上げた部分に面して1階から2階までつながっている大きな窓、階段の明り取りだろうか、草花が描かれたステンドグラスのようになっている。

 着物の裏地に凝るという言葉があるが、家の裏側の窓に、このような美しい装飾ををみると、古き良き時代の余裕のようなものを感じる。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/04/07

大横川を歩く

 深川に「深川」という名の川はないという話は、ひとまず置いといて、深川門前仲町近くにある大横川を歩いてみた。

 8dsc02457 
 この時季は「深川さくら祭り」、大横川の桜はライトアップされている。既に満開のピークは過ぎており、川べりの小道は花びらでうまり、川面にも花びらが浮いている。ちょうど満潮時間らしく、川の流れは止まり鏡のようになり、ビルの明かり、桜並木の提灯の明かりを川面に映している。

 「江戸深川情緒の研究」(深川区史編纂会、大正14年)は、”両側は水であった、水の外何物もなく、それは薄暮の蒼い光りの中に幽かに横たわっていた”というヴェネチア風景の記述からはじまり、さらに”深川はヴェネチアに比較してもよいほどの水郷で、その四至は水によって割られている。・・・”と深川風景を紹介している。

 当時の風景をそのまま見ることは困難だが、漆黒の水面に映る光りの列にかつての賑わいを、暗闇の中にそこだけぼんやり明るい橋の姿にかつてのヴェネチアに例えられた水の町の名残があるように思わせる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/05

目黒川を歩く

 このところ、なかなか昼食をゆっくりとる時間がなく、公園に足を伸ばすことはなかった。久しぶりに公園カフェに行ってみたら、広場は花見を兼ねてお弁当をひろげる人々であふれており、なかには20人を超える団体さんもいた。

8dsc02433 仕事場へ戻る途中、回り道して目黒川沿いを歩いてみた。すでに桜はピークを過ぎたようで、ちょっとした風があちこちに桜吹雪を作り出す。川面をみれば、桜の花びらが流れていく、川底の石も花びらでおおわれている。垂直に切り立つコンクリート護岸におおわれて灰色の世界に埋もれてしまった川も、この季節だけは華やいでいるように見える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/02

真間川を歩く

 日曜日の午後、真間川を歩いてみた。真間川は、江戸川に接して市川市を西から東へ流れている。

8dsc02377 真間というのは万葉集にも載っている古い名前だそうだが、この地は、はるか昔は水辺の入り江だったと言われている。現在はあまり低湿地のような様子は見られず、川の両岸は桜並木となりその背後に住宅地が並んでいる。しかし昭和30年代中頃までは、この川は、田圃に囲まれた田舎の川で、シラサギが遊ぶ光景を見ることができたほどである。もちろん護岸にコンクリートなどはなく、土手は草花におおわれて誰でも水面まで降りていくことができた。

 この川の様子を描いた作家がいる、市川市に住んでいた永井荷風である。昭和22年に書かれた短編「葛飾土産」は、当時の真間川の様子を描いている。”真間川の水は堤みの下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の気が列植されている”とある、桜は代が変わり少し小ぶりになったようだが、いまでも荷風が見た頃の面影はあるようだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/01

善福寺川を歩く

 土曜日の午後は第五回アースダイビング、善福寺川に沿って方南町から阿佐ヶ谷住宅まで歩いてきた。

8dsc02354 日ごろ、隅田川や流れがゆるやかな深川の運河ばかり見ているので、善福寺川の狭く深い川底や、曲がりくねった護岸の地形が新鮮に映る。川幅はそれほど広くないが水面が低い、たぶん大雨になれば水量はいっきに増え水位が上がるのだろう。途中、護岸の縁に、雑草が少し生えている土嚢が並んでいるところがあったが、たぶんそのあたりまで水が達したのだろう。

 隅田川も下流になると、水の流れは潮の干満で変わる。橋の上に立って水面をみれば、時間によって水は右に流れることもあれば左に流れることもある。川と海はつねに接しており、それぞれ相互に影響しあっている。それに比べると、善福寺川の流れはまるで渓谷のように勢いよく下っていく。同じ都内といっても西と東では水辺の様相がまったく違う。

 このような川の風景の違いは、そこに住む人々にどのような影響を与えているのだろうか?

 おりしも桜は満開、善福寺川周辺には花見の宴がいくつか見られたが、これだけは隅田川周辺で見る風景と同じだ、まあ花より団子は西も東も関係ないのだろう。

追記:善福寺川流域の話しが登場する本
1)荻窪風土記(井伏鱒二):昭和初期の善福寺川の風景
2)散歩のススメ(泉麻人):善福寺川、ゲルンジー駐車場(牧場)
3)東京自転車日記(泉麻人):ゲルンジー駐車場(牧場)、和田堀公園、大宮八幡、善福寺川

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/03/19

ロケーション・・・

 いつも利用しているカフェは小さな公園にある。昼時は、近くで働いている人がお弁当を広げたり、マンションの住人などがペットを連れて散歩している程度で、とても静か。旧山手通りに接しているが、最寄り駅から離れているので訪れるのは、この近くの人に限られているのだろう。

8dsc02217 この公園で撮影隊によく出会う。ほとんどが二三人の小さなグループで、近くのショップの店員だろうか、シャツや上着を替えながらスナップ風に撮影している。しかし、ときどき大所帯のグループもみかける。こちらはモデルにスタイリストやヘアーメイクにカメラマン、さらにそれぞれの助手が加わり、10人を超える場合もある。こういうグループは、客席がスモークで中が見えないマイクロバスで来ていることが多いが、どうもいつも同じ車のような気がしていた。先日、マイクロバスのボディに書かれている「Location・・・」で検索して分かったが、こういうロケ地の撮影をコーディネーションする会社がある。どうりで撮影隊は違っても、マイクロバスはいつも同じなわけだ。

 ロケーションサービスというらしいが、ちょっとやってみたい。しかし、いざ仕事にすると大変だろうな。なにしろ、先週まであった木がいきなり切られたり、昭和の名残のある古い建物が突然取り壊されたり、風景が目まぐるしく変わる東京では、絶えずロケ候補地の様子を把握していないと、たちまちロケ地探しにつまずきそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/08

ブリキ・トタン・キリン

 中学生の頃だろうか、ブリキは鉄板にスズをメッキ、トタンは亜鉛をメッキしたものと習った。しかしいまだに街角にある鉄板を見て、ブリキかトタンの区別がつかない。

8dsc02134 昼休みに目黒川沿いを歩いていたら、道路に面したガレージにきれいなモスグリーンのボディにクリーム色の屋根をのせた四輪駆動車が止まっていた。そのガレージの奥に雨戸を閉めたままの家が、ひっそり建っている。鉄板張りの雨戸は全く塗装していないようで、にぶく銀灰色に輝いている。ちょっと影になったような部分の下に何か描いてあるようなので立ち止まってみたら、キリンの絵とKIRINの文字があった。

 これは、鉄板メーカーのマークだろうか、であればキリン印のトタンとかブリキと言うのだろうか?それともこの家のオーナーが描いたものだろうか、いずれにしてもどこかノンビリして目が笑ったように見えるキリンの表情がとてもいい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/03/07

三角屋根の消えた町

 仕事帰りにJR国立駅で途中下車した。久しぶりに見る駅は、プラットホームもすっかり変わり、三角屋根がなくなり、周りにマンションが建てこみ、中央線のどこにでもあるごく普通の駅の表情になってしまった。

Eki2 この写真は1997年4月撮影、ちょうど10年前の国立駅前、三角屋根がひときわ目立つっている。今はマンションとなっている駅裏は、ネットが張られたゴルフ練習場だったことが分かるし、画面右端に建つマンションもまだ工事中らしくシートがかぶっていたようだ。十年一昔とはよく言ったものだが、この十年で空がぐっと狭くなった気がする。その一方、大学寮近くにあるお店の方々は、皆さん貫禄をどーんと増していたが、いまも昔と変わらず元気だ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/03/03

揚げパン

 京島の帰りに京成曳舟駅へ向かう。踏み切り手前に、どこか懐かしさがしみだしている町のパン屋さんがある。

8dsc02118_1 一番下の棚をみれば、右からクリーム、ジャム、カレー、アンドウナツ、メロンパン、ブドーパンと定番のパンが並んでいる、中段に目を移せばツナサンド、サケ・ウメ・コブのおにぎり、その隣りに揚げパン!、あの学校給食で食べた懐かしの「揚げパン」が並んでいる。さらに別な棚にはシベリアケーキもある。この品揃えは昭和のままだ!

 お店の方によれば、「キムラヤ」は戦前からこの地で営業していたパン屋さんで、店においてあるパンや焼き菓子は全て自家製だそうだ。近くにもう一軒同じ名前のパン店があり、そちらは兄弟店。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/02/23

商店街残照(4)

 踏み切りに接して古い建物がある。長いあいだ閉められているが、かつてここに玉子屋さんとボタン屋さんがあった。

8dsc01744 玉子屋さんは間口一間の小さな食料品店だったが、いつも産みたての玉子をモミ殻の上に積み上げて売っていたので、踏み切りの玉子屋さんと呼ばれていた。ボタン屋さんは、洋裁と手芸用品の大きなお店だったが、ボタンの見本を取り付けた箱を壁際に積み上げてあったのでボタン屋さんと呼ばれていた。玉子屋さんは消えてしまったが、ボタン屋さんは線路の反対側でいまも営業しているそうだ。

 両方の店とも、正面の看板はまだキレイだが、長い間シャッターが閉まったままのお店のトタン屋根はすっかりサビにおおわれている。もと手芸品店だけあって、建物裏側から伸びてきた木の枝は、複雑な造形をみせながら屋根をおおい、まるで編物のようにTVアンテナに絡みついている。一番線路側の部分は、いま不動産屋さんが入っているのでブルートタンで多少補修されているが、線路に面した部分はだいぶ色あせてきた。トタンを重ね合わせたような壁は、それぞれのトタン板が微妙なグラデーションでサビており、まるでサビのパッチワークのようになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/22

商店街残照(3)

 商店街の入り口に立つと、赤い地に白い文字で「京成八幡商美会」とかかれた看板が、通りの左右から頭上高く掲げられている。さらに歩くと、水色の地の中に白丸、その中に黒色で「メガネをかけたオジサン」が描かれた垂れ幕がところどころにある。よく見れば、その幕の上部に白い文字で「荷風ノ散歩道」と書かれているのに気づく。

8dsc01022

 戦後の永井荷風は、千葉県市川市の知人宅へ引越し、その後市内菅野、さらに京成八幡駅近くに自宅をかまえた。荷風は、この京成八幡商店街から入った路地奥に住みながら八幡・菅野・真間などを歩き、ほぼ毎日駅前の大黒屋でカツ丼を食べ、この地で命を終えた。この商店街が、「荷風ノ散歩道」の幕を掲げるのは、このような理由があったのだ。

 この「荷風ノ散歩道」商店街は、JR総武線本八幡駅から3分、京成八幡駅と都営新宿線本八幡駅に接する場所にある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/21

商店街残照(2)

 前回の写真は、私鉄沿線のどこにでもある商店街風景として、あえて場所を明記しなかった。しかしこの商店街は、散歩文学を愛好する人にとっては聖地のような場所で、全国から訪れる人がいる。(写真はクリックすると大きくなります)
 8dsc01020_1 
 正面に見える線路沿いの建物は、この地に古くからある大黒屋と呼ばれる料理屋さん。昨日紹介した商店街の入り口を右に折れて、線路に沿って10メートルぐらい歩いたところにある。今は、ご覧のようなビルになっているが昔は木造の建物だった。メニューには天ぷらやお寿司もあるが、ここを訪れる人はカツ丼を頼むことが多い。大黒屋でカツ丼を食べることを目当てに、この地を目指す人もいるそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/20

商店街残照(1)

 私鉄駅わきの踏み切りを渡ると、小さな商店街がある。その商店街の入り口に立つのはお菓子屋さん、お店の看板に書かれた文字はほとんど剥げているが、かすかに「森永キャラメル」と読める。その隣りはお菓子屋と同じ屋号のお米屋さん、その向かい側は運動具店にお茶屋さんが並んでいる。(写真はクリックすると大きくなります)

8dsc01982 じつはこの踏み切りの反対側には私鉄が経営するスーパー、さらに2-3分歩けばJRの駅と高層マンションにショッピングセンターがある。以前は賑わっていたこの商店街も、今はすっかり人通りが少なくなってしまい、休日はシャッターが閉まったままのお店もある。

 しかし一見すっかり寂れたように見える商店街も、古くからある鰻屋さん、お豆腐屋さんや和菓子屋さんなどは今も頑張っているし、大通りから移ってきたお店もある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/02/10

再会・曙ハウス

 masaさんやNeonさんのページで案内されていたが、「近代建築、街角の造形デザイン」(2月10日-3月18日)が文京ふるさと歴史館で始まった。I部で7戸、II部で8戸の建物を紹介しているが、なんといってもあの「曙ハウス」の看板に再会できるのがうれしい。

Tdsc02396 ふるさと歴史館玄関を入ると、すぐに目に飛び込んでくるのが「スウハ曙」と書かれた看板。いままで下から眺めるしかなかったが、間近にみる看板はアパートが過ごした長い年月を感じさせ、幾星霜という古い言葉が浮かぶ。実物の看板に加えて建物内部の写真・間取り図や絵などさまざまな工夫がされており、かつて曙ハウスを見た人も初めて見る人も、それぞれの楽しみ方ができる展示となっている。地下の展示場には、文京区にあった戦前に建てられた西洋館や昭和の代表的な建物が、ビデオ画像・写真や図面で紹介されており、こちらも必見。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/02/07

電車がきます

 都電荒川線は現在は都内唯一の路面電車で、専用軌道をとてもスムーズに走っているが、かつて都内を縦横に走っていた都電は、軌道内に入り込んだトラックや交差点の信号待ちのために、たびたびブレーキをかけるので騒がしく、一定スピードで走ることも難しかった。

Tdsc01847 この町、広島の市電は、かつての東京にあったように道路の真ん中を走り、いくつもの交差点を通過していく。そのたびに、あの懐かしい車輪とレールがこすれるような音がする。車両はレトロなものからモダンなものまで多種多様、車掌さんも乗っている。いや正確にいえば、一両の場合はワンマンカーだが、三両編成の場合は後方出口に料金処理や案内放送を行う車掌さんがいるのだ。

 数十年ぶりに道路中央の停留所に立ってみる。そういえば都電の停留所の端に、コンクリート製の頑丈なバリアがついていて、実際にそこに衝突していた車をみたことを思い出した。あれは中学生の頃だっただろうかと昔の記憶をたどっていたら、突然、停留所に「電車がきます」の灯かりが点り、遠くに見えた市電の小さなヘッドライトがゆっくり近づいてきた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/01/20

オルガンの消えた町

 先日、神保町花月が誕生することをお知らせしたが、今度は消えたお店の話。古書店に詳しい人なら、小宮山書店の裏にあった文省堂と明文堂書店があったブロックと言えばわかると思うが、そこが取り壊されている。

Tdsc01819 古い神保町をご存知の方なら、すずらん通りのアサヒ印房とツルオカピアノのあったブロックが取り壊されていると言ったほうが分かりやすいだろう。もう10年ぐらい前だろうか、ツルオカピアノで古いオルガンを見せてもらったことがある。その昔、小学校にあったような古い足踏み式のオルガンだが、深い赤茶色のボディがとてもキレイだった。我が家に置き場所があれば是非ほしかったが、残念ながら大きすぎて断念するしかなかった。
 足踏み式の古いオルガンは、デジタル化されたエレクトーンや電子ピアノの音とちがって、どこか懐かしいというか、ほっとするような音色がする。あのオルガンはどこに行ってしまったのだろうか・・・いつか広い部屋に住むことがあったらぜひ置いてみたい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/04

ユリカモメと遊ぶ

 お正月の三日、清澄庭園に行ってみたら、池にたくさんの水鳥が浮かんでいた。これは、この季節のいつもの風景だが、ユリカモメの数が増えている。数年前から、コイに与えたエサを横取りするユリカモメあらわれ、やがて空中でエサをキャッチするようになった。それが今年は人の手から直接エサを持っていくのがいる。

Tdsc01680 そういえば、ここ数年、都内で鳥をよくみかけるようになった気がする。銀座の空高くカモメのような鳥が舞っていたし、隅田川沿いのフェンスにずらりと水鳥が並んでいたのを見たこともある。昔から鳥はいて私がいままで気付かなかったのか、それとも東京の水辺に自然がもどってきたのか、はたまた鳥達が都会化して人間を恐れなくなったのだろうか。皆さんのまわりでは、どうでしょうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/02

わがやのお雑煮

 アースダイバーでお世話になった玉井さんのブログで、「わがやのお雑煮大会」の話しがあったので、私も報告します。といっても我が家の雑煮は、簡素きわまりないもので、具は「鶏肉と三つ葉」のみ、汁は「お醤油、みりん」、餅は「切り餅を焼いたもの」。父親の出身は長野、母親は名古屋ですが、お雑煮は、どちらでもなく強いて言えば東京風。

 中身が単純なので、鶏肉は、モモ肉を鶏肉専門店で購入しています。味付けは、1日目は濃い目で、二日目は少し薄目にしています。(写真のお雑煮は、私が作ったお正月二日目の薄味のものです)

Tdsc01640 一つ、よその家と違うのは、「お雑煮の作り方」、いや正解に言えば「お雑煮を作る人」がよそとちがっていることです。我が家では、「三が日のお雑煮は男が作る」ことになっており、お雑煮は父親の味なのです。現在は、元旦(実際には大晦日の夜遅く)に家族全員が集まると、兄がお雑煮をつくり、二日目は私が作り、いまも「お雑煮は男が作る」を続けています。

 ところで、なぜ我が家では「お雑煮を男が作るか」、はっきり分かっていません。父の子供の頃からそうだったらしく、昔は若水をくみそれで作ったそうです。このような習慣は、我が家だけなのか、それともある地域では昔からそうだったのか分かっていません。以前、友人達に、我が家のように「お雑煮は男が作る」習慣を知っているか聞いたことがありますがが、だれも知る人はいまでせんでした。どなたか同じような習慣をご存知だったら教えてください。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006/12/16

気が早い町?

 夜の渋谷の町は、白やブルーのイルミネーションがあふれ、すっかりクリスマス気分。いつも食事にいくカフェも小さなクリマスツリーを置いているし、カフェへいく途中にある家も玄関ドアにクリスマスリースを飾っている。

 しかし東京がすべてこうだと思うのは大間違い、場所を変えれば全く違う風景がある。

Toshikoshi_soba 今日(12月16日)の午後、買い物のために人形町付近を通ったら、道路沿いに謹賀新年の提灯と七福神巡りのノボリが並んでいた。卵焼き屋さん前には、お正月の予約は25日からの張り紙。さらに蕎麦屋さんの前を通れば、年越しそばのおみやげ予約案内の張り紙。江戸っ子は気が早いというが、この町は、お正月を迎える準備の真っ只中。これも東京の風景だ。

 ここまでの話だと、人形町付近の人は皆気が早いと思うかもしれないが、浅草では羽子板市がはじまるなどのように、これが古くからの東京の年末風景なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/11

アコーディオンの音が流れる

 冷たい雨模様の土曜日から一転して快晴となった日曜日、電車に乗り西へ向かう。ある本を探しに行ったが見つからず、かわりに「新銀座八丁」(朝日新聞社)を購入する。それほど珍しいものではないが、以前、何かの本の参考文献に載っていた記憶があるので、いずれじっくり読んでみるつもりで購入。

 その帰り道、Mさんのブログで紹介されていたギャラリーへ寄り、Mさんとその知り合いの方々に会う。

Tdsc01400 陽が傾きかけたギャラリーの中にアコーディオンの音が流れる。”山手のドルフィンは・・・”のフレーズが懐かしい荒井由美の「海を見ていた午後」。人間の息づかいに似ているアコーディオンの音は、聞くものを落ち着かせる。暗くなり表に出れば、暗闇のなかに赤いブランコが浮かび静かな日曜日が暮れていく。

| | コメント (11) | トラックバック (3)

2006/11/30

路面電車が走る町

 私が子供の頃は、都内あらゆるところに都電が走っていた。学校の行事で上野にある動物園や博物館にいくときは都電に乗っていった。貸切の場合もあったし、行事のあと各自バラバラに普通の都電に乗って学校へ帰ることもあり、なにか行事があると都電が利用されていた。その都電が、わずか荒川線をのみを残して消え去ってから長い年月がすぎた。

Tdsc01261 今日は(すでにもう昨日になっているが)広島出張、早起きをして駅前を歩いてみた。まだ早朝のため店は閉まっているところが多いが、市電が頻繁に行き来している。モダンデザインの連結車両もあれば、昔の都電に似たクラシックな車両もある。路面電車が加速するときのちょっと苦しそうなモーターの音、ブレーキをかけたときの金属が擦れるような音、ポイントを通過するときの車体がきしむような音、それらの音に都電に乗った頃の思い出が一気によみがえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/26

アースダイビング(片側町を行く)

 休日の11月23日、前日の天気予報では雨だったが、雲はそれほど厚くなく、気温も外出にダウンジャケットをもちだすほどでもない、まずまずの曇り空。この日は、masaさんから誘いをうけたアースダイビング、早稲田・王子・三ノ輪橋・向島を歩く日だ。アースダイビングについては、Kai-wai散策とそこからのリンク先に詳しく述べられているので、それを参照していただくとして、後半の三ノ輪橋から向かった山谷堀・向島の話しをしよう。

 都電三ノ輪橋駅から浄閑寺前をとおり、大門前の見返り柳をながめ、今は公園になっている山谷堀跡についた頃は、あたりは闇に包まれていた。地方橋、山谷堀橋、吉野橋などの地を通りすぎるが、水を失った橋は道路わきに柱が残っているのみだ。下流に向かって右側は、堀ぎりぎりに家が立ち並び、左側は道路となり、それに面して工場や飲食店がとこどころにある。夕闇に浮かぶ橋、この風景どこか引っかかるものがあったが、先を急ぐ。

 隅田川を桜橋でわたれば、川面に屋形船がゆっくりすすみ、浅草雷門あたりから観光客を乗せて来たのだろうか、人力車が橋の上を進んでいく。交差点角にある喫茶店「カド」の横を通り過ぎ、今夜の最終目的地である向島「とも」に到着する。「とも」は、お好み焼き・もんじゃ焼きの店と聞いていたが、元は料亭の別邸として作られたそうで、料理も海鮮鉄板焼き、もんじゃ、焼きソバ、寿司という豪華なものだった。

 さて家に帰ってみると、歩いている途中に感じた「この風景どこか引っかかる・・・」が気になってきた。実際に歩いたのは初めてなはずなのに、どこか懐かしい気がした、たぶん何かの本で読んだのかもしれない。日本堤、山谷堀、向島となれば、これは永井荷風だろうと墨東奇談(新潮文庫)を開けば、7ページ冒頭に「古本屋の店は、山谷掘の流れが地下の暗渠に接続されるあたりから、大門前日本堤橋のたもとへ出ようとする薄暗い裏通りに在る。・・・正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などいう橋の灯がわずかに道を照らすばかり・・・」の文章がみつかる。

 まさしく我々が歩いた山谷掘りのコースは、永井荷風の墨東奇談にでてくる”山谷掘の水に沿うた片側町の裏通りにあった古本屋”があった地だ。そして向島で食事をした後、小雨のなか我々を駅まで送ってくれたのは「yukiりん」と名乗る美しい女性だったが、「雪」とは、これも墨東奇談に登場する名前だ。これは偶然だったのか、はたまた周到に企画されたものだったのか、いずれにしろ素晴らしい一日に感謝である。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006/11/01

堀切駅へ行く

 少し前になるが堀切駅に行ってきた。京成線の堀切菖蒲園駅でなく、荒川の西側土手に寄りそうように建っている東武線の堀切駅だ。

 発端は、Mさんのブログで紹介された牛田Tシャツさんから拡がった足立区柳原の話だ。牛田駅の隣りにある堀切駅は、金八先生のロケ地として知られるとともに、古くは小津安二郎の東京物語の平山医院があった地とされている。荒川沿いの川べりの町は、いままであまり歩いたことがなく、堀切駅も話しには聞いていたが実際に訪れるのは今回が初めてだ。

Tdsc00767 京成関谷駅で下車して堀切駅へ向かえば、その途中は目新しいマンションが目立つ。首都高(向島線)を正面に見ながら広い道路を進み、途中から斜め左の通りへ入ると突き当たりに堤防の壁が見えてくる。荒川と隅田川を結ぶ川の堤防だ。大きな病院(柳原病院)がある。それにしても人がいない、ここに来るまでに出会ったのは犬一匹だけだ。それも放し飼いにされている番犬なのか、大きな家のガレージの扉のすきまから出たり入ったりし、いまにも吠えそうな様子だった。

 目指す堀切駅は、土手に沿った道が行き止まりの奥にある。そのため途中からは、この先に駅があるようには見えず、行き止まりにきて初めて駅があることが分かる。線路をまたぐ歩道橋に上がれば駅の全景が見えるが、ホームは長いがとても小さな駅舎だ。これが堀切駅なのか!

 目を川に向ければ、斜め前方に京成の鉄橋があり、土手では野球チームが試合をしている。都心からそれほど離れていないのに、随分遠くにきたように感じる。平山医院内の撮影はセットだったそうだが、小津安二郎が東京物語が伝えたっかたのは、この東京のハズレという感じなのだろう。そうであれば、それは今も十分感じることができる。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2006/09/20

麒麟の翼

 夜の日本橋へ行ってきた。銀座もおとずれる機会は少ないが、それでも友人達に誘われて夜の銀座を歩いたことは何度かある。しかし日本橋となると、休日の昼間に買い物に来ても、平日、それも夜歩くのは初めてだ。高速道路でふさがれた日本橋は、昼は薄暗くて、とてもゆっくり川を眺めながら歩こうという気持ちになれないが、夜は、橋の照明が風景と混ざりあい、すこしゆっくり歩いてみようかという気にさせる。

Tdsc00583 ところで、橋に飾られている動物像は麒麟(キリン)と言われているが、もともと麒麟とはどのような動物なんだろうかと、長いあいだ疑問に思っていた。このことについて、「日本橋をつくった人たち」(高木健夫)では、”日本の麒麟と呼ばれる動物は、頭は龍、胴は鹿、これに火焔が付いている”とある。すなわち、麒麟ビールのマークにあるのが麒麟だ。ところが日本橋の麒麟には大きな翼が付いている、これについても”どうにも落ち着きないので天馬のような翼をくっつけることにした”と書いているが、実物をみると、そんなに簡単に付けたようにはとても思えない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/09/17

祭りの風景PART2

 Mさんのブログで根津神社で祭りが行われていることを知り、早速、根津へ行ってみた。日暮里駅から夕焼けだんだんを下りよみせ通りを歩けば、お店の人や近所の人がカメラを手に集まり何かを待っている。遠くに聞こえた祭囃子が大きくなり、あっというまに山車を先頭に三基のお神輿が目の前を通り過ぎていく。こんなにすぐに神輿と出会うとは思っていなかったので、カメラを取り出す間もない出来事だった。

 横にいたオバサンが、お神輿はこのあとバス通り(不忍通り)を行くと教えてくれたので、不忍通りに出て撮影ポイントを探しながら団子坂方向へ歩いていった。道路の反対側に町内会のお神酒所がみえるバス停の近く、歩道が幅広くなっている場所があったので、お神輿の行列をここで待つことにした。まだかなと思いながら交差点方向を見たら、どこかで見た人がカメラを肩に歩いてくる。なんと私に今日の祭りのことを教えてくれたブログの張本人Mさんだ!この人混みの中からふわっと表れるとは、まったく不思議な人だ!

 その後、Mさんと一度はぐれたのだが、今度はNさんと一緒にふわっと表れ根津の裏通りを案内してくれた。時が止まったような古いアパート、タイル外装のパーマ屋さん、そして小さいながらも生活に必要なものをぎっしり詰め込んだ雑貨屋さんなどなど・・・。

Tdsc00480_1 さて根津で撮った写真を一枚発表しよう。Mさんのブログを見たかたならすぐ気付くと思うが、これはMさんが撮られた「表具屋さんのガラス戸に貼られた三百年祭のポスター」に触発されて撮影したものだ。奥のガラス窓の内側上に張られているのは、1950-60年代頃のハリウッド映画スターだ。顔は斜めの桟に隠れてどれも完全に分からないが、左から2枚目は小さくカサブランカと書かれているのでイングリッドバーグマンだろう、そして右側の男優二人はスティーブマックイーンとジェームスディーンだ。日本の祭りのポスター、その奥に旧きよき時代のアメリカ映画スターの写真、和洋新旧が地層のようにおりかさなる不思議な空間を根津にみたような気がする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/08/27

アクティブな古書仲間

 masaさんとの出会いは、今年のゴールデンウィーク初日に行われた谷根千一箱古本市だ。私が出店した市川糂汰堂で「東京の顔」(高木健)を買って頂いたのがきっかけで、その後、互いのブログに時々コメントを書き込むようになった。masaさんのブログkai-wai散策をみれば分かるが、音楽・ファッションから町歩きなど幅広い行動力と膨大な写真に驚く。そのmasaさんと、深川を歩いてきた。

Tdsc00319 さすがに都内各地を隅々歩いておられる方なので、そのフットワークは軽く、つぎつぎ風景を切り取っていく。その勢いにあおられて、ついつい時間を忘れて歩いてしまうほどだった。古書好きというと室内でじっくりというイメージを持ってしまうが、こういうアクティブな方もいるのだ。

 写真は、深川散歩中に清澄庭園の塀際で見かけた草花だが、いまはやりのド根性というよりは、静かなたたずまいが印象的だった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/06/20

ありふれた町を歩く

 川本三郎の東京残影に「ありふれた町」という話がある。山の手と言ってよい東京の西側杉並区で育った川本三郎は、下町と呼ばれる東京の東側を、「東京+散歩」の題材によくとりあげる。「ありふれた町」の舞台は、東京の東のはずれにちかい葛飾区立石・青戸である。

 その立石を歩いてみた。

Dsc05528 時間のつごうで駅周辺だけしか歩けなかったが、立石はじつに濃い町だ。なにしろ平日の午後3時なのに、立石仲見世にある居酒屋のイスはすでにお客でうまっている。惣菜屋の店先には夕飯のおかずを買うお婆さんがノンビリ歩いている。食堂、靴屋、洋品店、すべての時間がゆるーく流れる昭和の感じがする。踏み切りから続く通りは、コンビニやファーストフード店が立ち並んでいるが、わずか10メートル横へ移動するだけで、いきなり時間がゆっくりすすむ空間へワープしてしまう。

 「ありふれた町」は、じつは昭和の生活感が残る不思議な町なのだ。「東京+散歩」にたいする、川本三郎の探求力はスゴイものがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/06/09

神保町で映画と演芸

 退屈男さんのブログで、神田・神保町再生プロジェクトの一環で、新たな映画館と演芸場が出来る話を知った。場所は文房堂と地図共販の裏側、神保町会館の前だ。古い人なら、キッチンヤマダがあった路地と言えば分かりやすいだろう。先月、たまたまこの付近を通りかかったとき写真を撮ったので、以下に載せておく。

Dsc05050 いま神保町で映画といえば岩波ホールのみだが、かつて神保町近辺には、東洋キネマ(さくら通り)、神田日活(現タキイ)、銀映座(専修大学近く)、シネパレス(淡路町)、南明座などの映画館があった。また須田町万惣の隣りに立花演芸場があった。現在の状況からみれば、ずいぶん映画館密度が高いように思うが、私が子供時代にはどの駅前にも2~3館の映画館あったので、神保町付近が特別ではない。

 ところで看板には、(仮称)神保町1-23計画、建築主:小学館、地上6階、地下2階となっているが、どのぐらいの規模(収容人員)の映画館・演芸場だろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/11

清算か再燃か?

 バブルと呼ばれた時代があった、将来の値上がりを期待した投機熱が嵐のように吹きまわった時代である。年号でいえば1980年代の中ごろだから、もう20年も経っているのだが、あの時代を知るものにとっては、ついこのあいだという気がする。

 マンション、別荘、ゴルフ会員権、外車、骨董品など、あらゆる高額商品がバブルの対象となった。その中でも、もっとも目立ったのは都心の土地である。まとまった空き地があれば、それを転売するだけで相当な利益をうみだした。広い空き地がなければ、それを作ればよいと周辺の土地を次々買い上げてしまう。なかには売りたくない地主もいたが、あらゆる手段を尽くして立ち退きをせまったのである。バブル景気がしぼんだ後の町は、住民も少なくなり空き地が点在する歯抜けの町になってしまった。それは、町の景観を壊しただけでなく、住民のコミュニティも壊してしまった。このような空き地は、しばらく利用されることもなく放置されていたが、やがてその多くは駐車場となっていた。しかし、ここ1~2年、その様子が変わってきた。

Dsc05022a_1

 神田神保町のさくら通りにあった東洋キネマは、無声映画時代から続いた映画館だが、バブル期に地上げされ1990年代始めに取り壊され駐車場になっていた。映画館としての命ははるか前に終えており、店や倉庫として長い間使われていたのだが、その左右非対称な建物は昭和初期のデザインとして建築歴史関係者によく知られており、東京の古い建物を紹介した本「建築探偵の冒険:藤森照信」に詳しく紹介されている。私も高校・大学時代から卒業後も、この前を通るたびにその姿を見ていた建物で、時々塗り替えれていたのを記憶している。

 先日、さくら通りを歩いたら、東洋キネマ跡地の駐車場に建築予定の看板をみつけた。地上12階建てビルの建築予告である。ここ数年、さくら通りを九段方向に向かったうなぎの今荘の先でも新しいビルが建ち今も別のビルが建築中だが、いよいよその建築の波がさくら通りの中ほどまで進んできたのである。さらに東に向かうと、すずらん通りの中ほどにあるパーキングタワーが取り壊され、こちらは10階建てビル建築予定の看板が出ている。いよいよバブルの名残の空き地が本格的に利用され始めたようである、バブルの清算である。

 ところが、神保町をさらに東に進み小川町から淡路町に向かったとき、古い建物がなくなり新たな空き地ができているのを見つけた。駿河台交差点近くにあった帽子屋がなくなり空き地が広がっているし、淡路町にあったの花屋もなくなり、その付近が歯抜け状態になっている。これは通常の開発なのか、それともバブル再燃なのか、その理由を聞こうにも既に住人は立ち退いたあとで、空き地には草が生え始めているだけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/04

人形町交差点、不思議な飾りのある建物

 買い物帰りの途中、人形町へ寄ってみました。

 再開発が進む浜町・人形町地域は、古い建物が壊され高層ビルへの建て替えが行われています。とくに表通りは見上げるような高いビルが連なりつつありますが、なぜか人形町交差点の一角だけは、古い二階建ての建物が残っており、そこだけ空が広くなっています。
 
 よく見れば、屋根の淵にはラーメンの丼についている模様のような飾りがぐるりと施され、建物の正面壁の上部には、プロペラ機を正面から見たような飾りが付けられています。近づいてみると、飛行機の胴体のように見えたものは、丸い太陽か花のようですが、左右に広がるものは何でしょうか?ちょっと気になる飾りのある建物です。

Dsc04909

Dsc04910

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/06/11

浅草鳥越祭りへ行く

東京で梅雨入り宣言された翌日の6月11日(土曜日)は、朝の予報では小雨だったが、曇り空から時々日差しがもれてきたので浅草鳥越祭りへ向かった。

鳥越神社へ、どのような経路で行くかは、選ぶのが難しい。一般的には都営浅草線の浅草橋駅か蔵前駅からバスか徒歩だが、今回は大江戸線の蔵前駅から徒歩である。鳥越神社前に停まる都バス(秋葉原駅前行き)もあるのだが、これは都心のバスでは珍しいほど本数が少なく、土曜日などは1日5本しかなく、それも朝7~9時に4本その後は午後4時の1本で終わりである。結局、歩くしかないのである。

ようやく着いた鳥越神社は例年どおりの賑わいで、路地は祭り客があふれている。昨年おかず横丁裏で見つけた、みつ豆屋さんも祭り提灯を掲げ営業している。見回せば新しいビルが目立つようになったが、まだまだこの辺りは古い東京が残っていそうである。

なお鳥越祭りは、明日6月12日(日曜日)までである。


Dsc02622


| | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/01/10

銀座育ちの猫

銀座中央通から離れて歌舞伎座の裏、かつて木挽町と呼ばれたあたりもところどころ高層マンションが建ち、見上げる空は狭くなった。しかし目を路地に向ければ、昔と変わらず猫が日向ぼっこしている。堂々として何となく風格があるのは、銀座育ちのおかげだろうか。

Dsc01701

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/07

東京クリップ

東京を歩いてみると、以前よく通っていた店を久しぶりに訪れたら、すっかり別の店に変わっていたり、建物ごと完全に無くなっていることがある。そのためか、出かけた先で懐かしい風景や古いものに出会うと、妙に感動してしまう。懐かしいと言っても数十年前のことでなく、わずか数年前に見た風景のこともある。そのことに気付いてからは、あえて古い風景を探すのではなく、目の前の風景をちょっと切りとって残すようになった。このようにして出来たのが深川散歩の東京クリップである。たとえば2000年東京クリップと現在を比較すれば、秋葉原は高層ビルの街に変わりつつあり、花びらに覆われていた千駄木の小道は、どこにでもある普通の住宅地の通路に変わってしまった。

Dsc01632

| | コメント (0) | トラックバック (0)