古書との出会い:東京文学散歩(野田宇太郎)
文学散歩を名のった本は、「新東京文学散歩:野田宇太郎、日本読書新聞、昭和26年」が初めてとされています。その成り立ちは、日本読書新聞の元編集長であった長岡光郎氏が、「野田宇太郎、東京ハイカラ散歩:角川ランティエ文庫」巻末に、「文学散歩」誕生の記として述べています。文学散歩は、もともと新聞連載として企画された”近代文学の名作の舞台、文学者の事跡などをた尋ね歩いてのルポルタージュである”とあります。
野田宇太郎の「新東京文学散歩」は、日本読書新聞の昭和26年新年号から7月まで月1回づつ掲載され、連載完了後に単行本として刊行されました。東京ハイカラ散歩巻末の略年譜によれば、昭和27年、角川文庫版がベストセラーとなるとありますから、文学散歩の企画は大成功だったのでしょう。その後、野田は、「九州文学散歩」、「関西文学散歩」、「東京文学散歩」など一連の「文学散歩」ものを次々刊行し、文学散歩という分野を確立しました。
今回は文学散歩の代表として、「東京文学散歩第二巻、下町(上)築地・銀座・日本橋界隈:野田宇太郎、小山書店新社、昭和33年」を紹介しましょう。
「東京文学散歩 下町(上)、日本橋川のほとり」の書き出しには、”京橋通りと「東京三十年」”のサブタイトルが付けられています。東京三十年は、以前紹介した田山花袋の東京三十年ですが、その第一章の書き出しを引用してまだ幼い(11歳)田山花袋が丁稚奉公していた京橋の有倫堂書店の話から日本橋界隈の話がはじまります。
やがて白木屋(現在の日本橋コレドの場所にあった白木屋デパート)を通りすぎ、丸善を舞台とした田山花袋、尾崎紅葉、芥川龍之介の話「丸善の思い出」にうつります。この中で、野田は、内田魯庵が書いた「思い出す人々」に収録されている丸善を訪れた尾崎紅葉の話をとりあげています。
これは、明治の流行作家であった尾崎紅葉の意外な面を示す話なので、少し紹介しましょう。
明治2年、早矢仕有的により設立された商社丸屋商店は、明治13年に丸善となり書籍、文具、雑貨などを扱うようになりました。その洋書部門の顧問をしていた内田魯庵は、明治36年の夏、丸善へブリタニカを求めにきた尾崎紅葉に出会いました。そのとき紅葉は、すでに胃がんに冒されて重態であると言われてましたので、魯庵は、紅葉が来たことに非常に驚きました。
しかし紅葉は、”まだ1ヶ月や2ヶ月は大丈夫生きているから、ゆっくり見て行かれる”と言い、そのとき在庫があったセンチュリーを購入したのです。その後、紅葉は、約3ヶ月後の明治36年10月30日に36歳で亡くなりました。
野田は、自らの死が近いことを知りながら、なお本を求めた紅葉について、”まだ春秋に富んだ尾崎紅葉が、知識の殿堂とも言えた丸善に瀕死の肉体を運んだ姿には、自若として大悟徹底した古武士の面影さえあったようだ”と感想を述べています。
野田宇太郎の文学散歩本は、全集としても発行されましたので多くの図書館が蔵書しています。東京文学散歩で取り上げられた文学作品や作家は、明治や大正が多いのですが、昭和30年代当時の東京の様子もよく記述されており、掲載されている当時の写真とともに昭和東京を知る資料として貴重な本です。
なお東京文学散歩は、過去に数社から出版されましたが、最初に出版された小山書店新社版は表紙に江戸絵図(本所深川絵図)の写しを使用した美しいものです。その後の雪華社と文一総合出版は、両方とも単色の表紙となっています。
「東京文学散歩第二巻、下町(上)」 小山書店新社
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