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2007/05/20

深川・佃町・住吉神社

 中央区佃島は、江戸時代に摂津(現在の大阪)佃村の人々により作られ、そこにある住吉神社の祭りは都内でもよく知られている。ところが、これは初めて知ったのだが、”大阪の佃に住吉神社は存在しません。そこに在るのは田蓑神社という神社です”との話がmasaさんのブログで紹介されている。その真相は、masaさんのブログを見ていただくとして、深川にある住吉神社を紹介しよう。

8dsc02744 じつは深川にもかつて佃という町があった。深川住吉神社由来によれば、「享保4年に富岡八幡の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹二三丁目にあたり、ここに佃島住吉神社から分霊された小祠が祀られている」とある。この深川住吉神社は、いまも牡丹町に小さな祠としてあり、その境内には力石に混ざって佃町の文字が彫られた石がある。

 東京湾周辺の歴史をみると、その開発者に摂津出身の記述をみることが多い。砂村(砂川)、深川、佃島、野毛、久里浜、これらの地は、みな江戸時代に摂津から来た人々が開発している。こうしてみると、まるで「江戸っ子だってね、先祖は摂津の出よ!」というセリフが聞こえてきそうである。

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コメント

ブロガー連携によるルーツ探し…という感じですが、なんだかロマンを感じます。このエントリーにリンクを張らせていただきました。

投稿: masa | 2007/05/21 11:15

大阪と東京の佃、数百キロ離れた場所で数百年のときを経ているので、まったく違う風景になっているかと思っていました。しかしmasaさんの写真をみると、どこか似たような雰囲気がありますね。何がそうさせるのか興味があります。

投稿: じんた堂 | 2007/05/22 08:17

現在確認されている深川周辺の最古の地図は明暦の大火のすぐ後に記されたといわれる三井文庫所蔵の江戸大絵図です。
それによると今の八幡のむかえにわずかな(隅田川より)町屋があるだけで現・大横川殻千葉側は海岸線だったようです。
(現住所で牡丹三丁目、木場一丁目当たり)
また現在現代美術館あたりから三つ目通り周辺(木場、冬木、平野辺り)を旧木場といいますが明暦の大火の後に江戸復興に活躍した古い木場は大川沿い(隅田川)の現・佐賀、福住、深川一丁目(清澄通りと隅田川の間)にあるように記されています。
考えてみれば材木を貯木するのに川から運び入れるのに旧・木場の辺りまで掘割を入れるのは面倒、大川からすぐのところにあったと考えるのが自然のように思えます。
隅田川河口付近は松平家の屋敷と町屋がありますが現・永代通りから海側には寺・神社は一軒も記されていないようです。

投稿: 真理子 | 2007/06/06 08:20

 古地図で見る江戸・東京の変化は、なかなか興味深いですね。
 
 以前、木場の変遷を調べましたが、日本橋=>佐賀町=>(猿江)=>木場と移転していました。江戸時代の大量輸送は海運ですから、木場はどうしても水辺になります。また木材を長期に保管するためには海水と真水が適度に混ざったほうが良いとも言われており、このことも立地条件になると、やはり木場の場所は限られてきます。なお、深川散歩では木場の歴史について以下のように書いてあります。

 徳川家康の江戸城や江戸の町の大規模開発に合わせて、駿河、三河、伊勢などから多くの材木商が江戸に移り住んできた。最初、彼らの多くは日本橋や神田付近に集まり、材木町を形成していったが、たびかさなる火事の際に類焼を避けるため、材木置き場は徐々に隅田川沿いに移っていった。深川の最初の材木置き場は、隅田川沿いの佐賀町付近に作られ、その後深川東部の猿江に移され、最終的には1701年(元禄14年)頃に富岡八幡宮近くに広がる木場に落ち着いたのである。最初の佐賀町付近は、その後の木場と区別するため元木場と呼ばれる。

投稿: じんた堂 | 2007/06/06 23:13

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