フィールドワーク:霜降銀座・谷田川を行く
週末に駒込にある霜降銀座を歩くと共に、谷田川の変遷を調べてみた。
霜降銀座は、本郷通りを駒込駅から王子方面にむかう途中の霜降橋交差点のてまえを左折し、西ヶ原方面へむかう商店街。八百屋・魚屋・肉屋からはじまり、昔懐かしい洋品屋の看板をかかげる店などがある。霜降銀座のホームページによれば、”霜降銀座商店街は昭和31年に発足”とあるが、いまも発足当時の昭和の雰囲気を感じる商店街だ。
霜降商店街につながる一連の銀座商店街は、暗渠となった谷田川の流れに沿っている。どの商店街の路地も、ゆるやかに曲がりくねっており、その道幅も広くなったり狭くなったりして、いかにもかつての川筋らしい。谷田川は、谷中付近を流れていた藍染川の上流にあたるが、谷中から藍染川上流をめざした様子を、森まゆみさんは、「不思議の町 根津」の”藍染川をたずねる”のなかに書いている。
よみせ通りから、田端銀座、駒込銀座、霜降銀座、染井銀座を自転車でさかのぼった時の印象として、”よくもこんなに銀座がつづくものだとあきれながら、そうか「藍染川沿いは昔から商業路であったのだ」と納得した”としたと記している。この体験行は谷根千3号に掲載されたとあるから、これは今から20年前ごろの話しと思われるが、いまもそのまま通用する。
ところで、この谷田川は、暗渠になる前はどのような川だったのだろうか、またなぜ暗渠にしたのだろうか?
手がかりを求めて滝野川図書館で資料を探していたら、「谷田川改修ニ関スル請願書」の写しをみつけた。この請願書から昭和初め谷田川の様子がうかがえるので、その冒頭の部分を引用してみよう。
「源ヲ巣鴨町及西巣鴨町ニ発シ本町大字西ヶ原、中里及田端ヲ貫流スル谷田川ハ近来其ノ両岸商街住宅地ト化シ之ヨリ放流スル汚水ハ同川ニ集注シテ悪臭紛々病毒ノ淵叢タルノ感アリ、一朝降雨ニ際会センカ本郷区駒込一帯ノ雨水ヲ合シ一瞬タチマチ濁流奔溢シテ居宅ヲ襲ヒ毎年ノ浸水家屋千数百戸ヲ算シ其惨憺タル被害名状スヘカラザルモノ有之候・・・」 この請願書は、滝野川町長の名で昭和5年6月に作られている。
請願書ということで、多少おおげさに書いたかもしれないが、昭和5年当時、”谷田川両岸に商店や住宅が増え、そこからの汚水が集まり悪臭プンプン、病毒の巣”だったと記述されている。このことから、昭和初め、谷田川沿いには既に住宅と商店が建ち並び、川は、悪臭がひどいドブ川状態であったことが分かる。これは現在の言葉でいえば、生活排水による汚染がひどかったとなる。また”ひとたび雨となると浸水家屋が千数百戸にもなった”と、水害も発生していたこともうかがえる。これも現代風にいえば、大雨のバッファとなる田畑や野原が少なくなったことにより、雨が一気に水害となってしまう都市型災害が発生していたことになる。すなわち昭和初めに、谷田川流域で都市化がおきていたことになる。
谷田川は、このような状況を改善するために、川を暗渠にして、その上を通路とする改修がされたのである。その工事は昭和6年から始まり、予算は92万と記録されている。
昭和初めに東京の郊外各地でおきた農村から宅地への急激な転換は、関東大震災をきっかけに、都心から比較的被害の少なかった郊外へ人が移動したためと言われている。谷田川流域でも同じことがおきたと思われるが、これに加えて、震災前から王子にあった兵器廠とそれを支えた周辺の軍需工場の影響が加わっているかもしれない。駒込や西ヶ原は、高級住宅地として知られるが、実際に谷田川流域の商店街を歩いてみると、左右の狭い路地には家が密集し、まるで町工場を背後にもつ下町の商店街にいるような気がするからだが。これについては、今後の追加情報を待ちたい。
追加情報:
| 固定リンク
コメント
すばらしい!!
いろいろ資料を突き合わせてみていくと、厚みが出てきますね~。
3月の『川の地図辞典』のイベント、ますすま楽しみになってきました。
投稿: わきた・けんいち | 2008/01/31 13:15
わきたさん、こんばんは、
地形の凸凹の資料準備が進んでいるようですので、川の変遷を少し調べてみました。この川筋の町がどのように変化したのか・・・その背景がちょっと気になります。
またお会いすることを楽しみにしています。
投稿: じんた堂 | 2008/01/31 23:02