麻布霞町の田舟
暗夜行路という作品の名前は知っていても、志賀直哉がどのような作家だったかは全く知らなかった。
先日、旧麻布市兵衛町へ向かう途中、川好きotokoさんの案内で、青山墓地にある著名人の墓のいくつかに立ち寄った。
志賀家の広い区画と、そこに整然と並ぶ墓石の列に驚く。
じつは志賀直哉の祖父である直道は、古川財閥の創始者とともに足尾銅山を開発した実業家であり、父の直温も明治の財界人であり、直哉も学習院に学ぶような裕福な環境に育ったのだ。
その志賀家は麻布にあったが、昨日読んだ「僕の東京地図」(安岡章太郎)に、青山界隈がまだ半分農村だった様子のなかに志賀家のことが書かれている。
”志賀直哉氏の家もやはりその頃まで麻布にあり、麻布から青山にかけて志賀家はたくさん農地を持っていたので、雨が降ると志賀家では田舟を出して、青山霞町あたりの田んぼが水に浸っていないかどうか見廻ったものだという”と、ある。
霞町は現在の西麻布付近となり、川の地図辞典によれば、青山墓地周辺を流れていた笄(こうがい)川の支流が集まる谷のような地であり、大雨になれば田は水につかり田舟が出るような、まるで低湿地のような地だったのだ。
現在はオシャレな店があつまる西麻布だが、どこか谷底のような雰囲気がするのは、大きな日陰をつくる高速道路のせいもあるが、やはりこの地形によるものが大きいだろう。
写真は、青山墓地(舌状台地の舌先)から西麻布を方面をみたところ。
| 固定リンク
コメント
青山墓地周辺の低地は古地図では原宿村の飛び地のような農地のようですね。周辺の台地は大名屋敷か大縄地ですから、そ人が住むような場所でなかったのでしょうね。そういえば、青山周辺の大縄地の幾つかが公務員住宅やら、銀行関係の社宅や寮になっているのは...江戸時代と代わり映えしない。
投稿: iGa | 2009/05/21 03:22
iGaさん、こんばんは。
最近は減ってきましたが、青山周辺には職員住宅とか寮と名が付く建物が目につきます。しかも、それが役所だったり公共色のつよい団体だったり、いずれもお上のために働いている人々のためです。江戸開府以来、お上の台地好きは変わらないようですね。
投稿: じんた堂 | 2009/05/21 21:03
70年代初めから90年代初めくらいまで、途中5年のブランクはありますが、務めていた時代も含めて20年間くらい南青山の台地のヘリに通っていたので、あの周辺の変貌を見ていました。元・原宿村の田圃だった西麻布の外苑西通りに沿って、路地(中央にドブ)を挟んで長屋が並ぶという、江戸東京が偲ばれる一帯がありましたが、80年代から始まった地上げの波で....消えてゆきました。あの頃は物価も台地と低地ではハッキリと違ってましたですね。(^_^;)
変わったところでは岡本太郎のアトリエの裏は大隈重信の別邸で書庫らしきコンクリートの建物だけが残っていて80年代にカフェバーになってました。その裏は建設省の官舎があったところで、70年代は共済組合のマンションと建設省で働く勤労学生(死語)為の寮がありました。私が借りていた仕事場の前の道は江戸時代からの古道で200メートルくらい行くと青山脳病院の跡でした。
投稿: iGa | 2009/05/22 10:01
>路地(中央にドブ)を挟んで長屋が並ぶという、江戸東京が偲ばれる一帯がありました・・・。
不動産情報誌にある、高級住宅・マンションが並ぶ古くからの山の手というイメージは、ちょっと短絡的ですね。台地の間にある谷や古い川筋に沿った低地は、むしろ下町のように家がびっしり建ち並ぶ路地の風景があったのですから。これは青山だけでなく目黒や本郷もそうですが、台地とその縁や谷間、坂の上と坂下では、景色だけでなく、そこに住む人々の生活も異なっていたようです。古くからの住民が少なくなるにつれて、こういう記憶もだんだん忘れられ、町が均一なイメージになっていくような・・・。
>青山脳病院の跡・・・
出発前に川好きotokoさんから古い地図のコピーを頂いたのですが、そこには脳病院の名がつけられた建物が、立山墓地の隣りにしっかり載っていました。北杜夫の「楡家の人々」で大きな病院のように描写されていましたが、それでも個人病院なので、せいぜいアパート程度かと思っていました。ところが、地図にある脳病院は、青南小学校と同じかそれより大きいぐらいで、南青山では当時最大規模の建物のようです。今回、認識を新たにしました、これも古い地図のおかげです!
投稿: じんた堂 | 2009/05/22 20:20