活字本が手放せないのは
レコード時代から活字媒体の内容を音声媒体に録音したものはある。有名俳優やアナウンサーに小説などを朗読してもらい、それをカセットにしたものをカセットブック、CDにしたものをCDブック。いまはこれらにダウンロードが加わり全てまとめてオーディオブックと呼ぶらしい。私もいくつかオーディオブックを持っており、パソコンやウォークマンで聴いている。
先日、向田邦子「思い出トランプ」のオーディオブックを聴いていてふと思ったことがある。
活字本とオーディオブックは同じ内容ながらも、その印象が異なることがある。それは朗読をする人の声質や微妙な間のとりかたが関係しているかもしれないが、それよりも文字を追いながら読む行為の特性が影響しているように思う。
オーディオブックは一定のテンポでどんどん進み、聴く者はそれに合わすことを強いられるのに対して、活字本は前行や二行さらに三行前の内容を確認しながら行きつ戻りつしながら読むことができる。読書するテンポと進行は完全に読者にまかせられている。オーディオブックを持っていながらも、いまだにその活字本が手放せないのはこういうことかもしれないと思ったのだ。
それにしても向田邦子は、話の展開がうまい。たとえば「花の名前」(オーディオブックでは加藤治子が朗読)では、電話機の下におく小さな座布団の話からはじまり、平穏な生活のなかに降りてくる微かな闇というか陰影を描いていく。やさしい文体でありながら、どこか毒のある文章はさすがだ。
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