日記を盛る
日本の日記文学の代表作として永井荷風の「断腸亭日常」をあげる人が多い。なにしろ40年を超える長きにわたり書かれた日記は、文学だけでなく歴史資料としても質と量ともに優れたものとされているそうだ。”そうだ”としたのは、断片的に読んだことはあるが、いまだに全てを読み通したことがないからだ。
ところで最近はどんな日記本があるかと近所の本屋に立ち寄ってみたら、雑誌コーナーでサブタイトルに”日記を読む、日記を書く”とある雑誌が平積みされているのをみつけた。「Kotoba」は集英社が発行している季刊誌、その2018年夏号は日記の特集。日本の古典である土佐日記からはじまり夏目漱石、南方熊楠、永井荷風、植草甚一などの日記の話が並んでいるが、一番面白かったのは「わたしが日記を盛る理由」(みうらじゅん)。
個人の日記は、ノンフィクションのようにみえて大なり小なりフィクションが入り込みがちだ。たとえば子供の頃あった夏休みの絵日記、田舎で食べたスイカを実物より大きく描いたり、オジサンからもらったカブトムシを自分が採ったように描いてしまったような経験をもつ人がいるだろう。これらは、いまの言葉なら”盛る”となる。みうらじゅんは、中学生のころ親が日記を見ていることに気付き、それからは親に読まれることを前提に盛って書いた。それも親が”うちの息子も一人前になったかと”と思うように、いろいろ出来事をでっち上げたと語っている。みうらじゅんのこの話は、なぜ人は盛るかを解き明かすヒントになるかもしれない。どうやら、みうらじゅんはただの仏像好きオジサンではないようだ。
それにしても、集英社がこのような季刊誌を発行しているとは全く知らなかった。集英社といえばコミックや週刊誌のイメージが強いが、Kotobaはどちらでもなく集英社によれば多様性を考える言論誌としている。文芸雑誌でもないし専門雑誌でもない、ちょっと間口が広いが中身の濃い雑誌だ。
| 固定リンク
コメント