先日、コレジオ芳賀氏の神保町講演のなかで、日本橋台地(江戸前島)の名前がでてきた。
”この付近(神保町)にある神田一橋中学校で発掘された水道用木樋のカスガイに牡蠣が付着しており、この地は低湿地というよりも潮干満の「入江」であった”との話しとともに、江戸時代、日比谷入江が、武蔵野台地と日本橋台地に挟まれている地図を示された。
「東京の地理がわかる事典」(鈴木理生、日本実業出版社)では、江戸前島の項で”この場所を現代の地形学では「日本橋台地」と呼ぶ。山の手台地の一つである本郷台地の先端が、海進期の荒波に削られて低く平らになった場所で、「日本橋波食台地」とも呼ばれる”とある。
ところで台地の端には坂がある。無縁坂、湯島天神男坂、神田明神男坂、九段坂などは、みな台地の端に位置する坂である。となれば、いくら荒波に削られ低く平らになったとはいえ、日本橋台地の周辺にも坂があってもおかしくない。たとえ坂が残っていなくても、その痕跡の名前ぐらいはあるのではないだろうか。
まず開いたのが、東京の坂道を解説した「江戸東京坂道事典」(石川悌二、新人物往来社)。この本は、台地別に坂道を列記しているが、残念ながら、日本橋台地・江戸前島の項はなく、ざっと見たところでは日本橋台地・江戸前島を述べたところも見つからない。
やはり、日本橋台地に坂道はないかと思ったが、先週、たまたま人形町から日本橋室町へ向かう道で、写真の光景を目にした。
場所は日本橋三越本店の向かい側にある、鰹節大和屋さんの横の路地、ハンペンで有名な神茂と佃煮の鮒佐のある通りである。それが昭和通りに接する部分が、わずかだが坂のようになっているのだ。
しかし、この場所はどうみても台地の端には見えない。
自宅に戻り、復刻版江戸古地図の日本橋付近をみると、現在の昭和通り江戸橋付近に堀があり、さきほどの路地は、この堀にぶつかっていたようだ。
堀・川となれば、いつもの「川の地図事典」の出番である。
P39の地図によれば、ここにあったのは「西堀留川」、上から見れば、ちょうどL字型の堀であることが分かる。P46の「西堀留川」解説では、”日本橋川左岸からの入堀。本船町と小網町一丁目の間から北西に向かい、堀留町一丁目の手前で西に折れて室町三丁目で留まっていた”、さらに”堀は旧石神井川の下流部にあたる谷田川の河口部にあたり、慶長年間の工事で入堀として整備された”とある。
2008年3月、コレジオ主催で行なわれた「川の地図事典」出版記念ウォークは、駒込付近からの谷田川の上流をさぐるものであったが、今回、日本橋で、再び谷田川の名をみることになった。坂道は見つからなかったが、なにか不思議な縁を感じるとともに、同時にはるか昔の台地の姿に思いをめぐらしてみたくなった。