あの頃の東京

2024/02/16

山の上ホテル休館

 駿河台下の坂道から見上げる台地の上にクラシックな洋風建物がそびえている、山の上ホテルである。TVニュースによれば、その山の上ホテルが2024年2月13日から休館となった。

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 上に載せた写真は、山の上ホテルの喫茶(パーラー)でもらったコースター。60th ANNIVERSARY とあるから創業60周年を記念したものだろう。

 ニュースでは今年が創業70周年と紹介していたから、これは10年前の2014年のものとなる。じつは2014年はHILTOP ANNEXの名を掲げていた別館が閉館された年、たぶんそれもあって記念品としてもらったようだ。

 さて気になる山の上ホテルの今後はまだ未定だそうだが、どうなるだろうか?

 ところで時々利用するカフェのコースターはオシャレデザインのシリコン製。紙製は使い捨てだが、シリコン製は何度も使え省資源になるそうだ。こうなるとこのコースターもらってもいいですかと気軽にお願いすることは出来ない。

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2022/11/21

あの頃の二つのジロー

 かつて御茶ノ水近辺で”ジローへ行こう”と言うと、”どっちのジロー?”となることがあった。手軽にしっかりランチを食べようとなるとキッチンジローだが、たまにはオシャレな店へとなると喫茶ジローとなった。

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 キッチンジローも喫茶ジローも同じジローという名をもつが、この二つはまったく別の会社。キッチンジローは、創業者小林二郎の名に由来し、駿河台下・神保町に店があった。喫茶ジローは、シャンソン歌手イヴェット・ジロー(Yvette Giraud)の名に由来すると言われ、御茶ノ水に店があった。イヴェット・ジロー由来説は都市伝説ではないかとの声もあったが、これは本当の話らしい。

 じつは最近になって知ったのだが、「このまま100歳までおいしゅうございます」(岸朝子、東京書籍、2012年)の中で、著者は”昭和30年(1955年)主婦の友社に入社した私は、会社から歩いて5分ほどの駿河台下にできたシャンソン喫茶「ジロー」に通いはじめた”とあり、”ジローは経営者の沖広治さんが集めた1000枚あまりのレコードが売りだった”、さらに”店名は当時の人気歌手イベット・ジローから”と述べている。これはシャンソン喫茶時代のジローへ実際に通った人の話だから確かだろう。

 上に載せた写真は、イヴェット・ジローのCD(サイン入り)。

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2020/07/04

万世橋の消えたランドマーク

 交通博物館がなければ神田川に架かる万世橋を渡ることもなかっただろうし、須田町や淡路町を知ることもなかっただろう。

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 万世橋にあった交通博物館は、鉄道主体であったが交通と名がつくだけあって自動車・飛行機・船舶など幅広い展示をしていた。大人になってからは遠のいてしまったが、それでも近くで用事があり時間に余裕があると利用していた。とくに館内にあった列車食堂を模したレストランは穴場だった。2006年に閉館し、現在はJR系の高層ビルが建ち、中央線高架下は商業施設マーチエキュート万世橋となっている。写真は全て2004年2月28日撮影。

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 館内に入ると黒々した蒸気機関車の姿に目を奪われる。左側の蒸気機関車は一部がカットされており内部構造が見られ、天井へ目を向けるとヘリコプターと複葉飛行機アンリファルマン、いずれも本物が展示されていた。

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 さすがに船舶は模型だが、青函連絡船・津軽丸の姿に圧倒される。交通博物館にはたくさんの模型が展示されていたが、どれも精巧に作られ、ボタンを押すと動くものもあった。

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 交通博物館の一番の楽しみは、この鉄道ジオラマ(博物館では鉄道パノラマと呼んでいた)。さすがにこれだけ大きいものは家庭に置けないので、子供だけでなく大人も憧れの眼差しを向けていた。走行していた鉄道模型はHOゲージ、ミドリの山手線やオレンジの中央線など都内で見かける通勤電車に加えて特急踊り子号や寝台列車カシオペア、貨物列車、新幹線など様々なJR車両が走行。模型とはいえ、新幹線は他の車両より走行スピードが速く、細かい気配りがされていた。

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2020/06/28

小川町の消えたランドマーク

 靖国通りを駿河台下からさらに東へ向かう途中、小川町交差点の左角に小さな洋品店があった。

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 フタバヤ洋品店は交差点中心に向かって建てられていたので、靖国通り・本郷通りのどちらからもよく見えたので覚えている人は多いだろう。丸いアーチをもつ屋根と最上部をアーチ型にした二連縦長窓の建物は、いわゆる看板建築のようだった。竣工1927年(昭和2年)、解体は2000年以降だが正確な年ははっきりしない、じつは久しぶりに小川町交差点を通ったら細長いビルに建て替わっていたので解体されたことを知ったのだ。写真は1998年11月撮影。

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  上の写真は、営業中のフタバヤ洋品店。店頭の右側ワゴンにワイシャツ、左側スタンドに靴下が吊り下げられ、さらに店内上方にネクタイが並んでいる。じつはここでワイシャツを買ったことがある。

 さらに時代をさかのぼると、隣の尾張屋は木造だったし、その先の金石舎も古い建物のウィンドウの中に原石のようなものを展示していたと思うが、この記憶はちょっと自信がない。周辺を高いビルに囲まれながらも交差点を見守り続けたフタバヤは、いまは見ることができない小川町の消えたランドマークだ。

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2020/06/21

駿河台下の消えたランドマーク

 靖国通りを九段下から両国方面へ向かう途中の駿河台下交差点、楽器屋に並んで小さな消防署があったことを覚えているだろうか?

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 いまは千代田区コミュニティサイクル・ちよくる駐輪場になっている所だ。看板に神田消防署駿河台出張所とあり、上の写真のように消防自動車が1台だけ停まっていた。写真は2008年5月撮影

 この建物は竣工1928年(昭和3年)、前回紹介した九段下ビルとほぼ同時代に造られ、解体は2013年。周りが高いビルになってもここだけ低いままで、そのギャップがどこかかわいい印象を与えていた。もしリノベーション・リフォームすればオシャレな空間になったかもしれないが、いまはもう見ることができない消えたランドマークだ。

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 周りのビルと比べて、どれだけ小さいかは上の写真から想像できるだろう。この位置からだと、まるで楽器屋の後ろに隠れているようだった。

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2020/05/31

九段下の消えたランドマーク

 パソコンの外付けディスクの中身を整理していたら、古い写真のファイルが見つかった。それを参考にして、いまはもう見ることができない消えた東京の風景をいくつか紹介しよう。 

 九段下ビルは、九段下駅と専大前交差点の中間あたりの靖国通りに面してあった。関東大震災の復興建築として1927年(昭和2年)に竣工、2012年に取り壊された。この写真の撮影時(2006年5月6日)は、建物一階に左から九段歯科、グリーンの日除けがある東京珈琲(Bistro Mr.Beans)、伊藤眼鏡店、喫茶カリーナなどが並んでいた。建物中央付近の色が違ってみえるのは、落下物防護ネットで覆われているためだ。

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 ところで、かつて天気の良い日にこの前を通ると、大きなオウムが入った鳥かごが歩道に置かれていたのを何度か見かけた。その写真を探したら1999年10月にこの付近を撮影したフィルムの中にあった。

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 今回あらためて調べてみたら、鳥かごの中にいる白いオウムは、頭の後ろに冠のような黄色い羽が伸びていることからオーストラリア原産のキバタンのようだ。大型のオウムは長生きだそうだが、どうしているだろうか。

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 また同じ日に撮影した建物全景の写真もあった。まだ建物にネットはなく、喫茶カリーナの右隣は100円ショップ、東京珈琲の日除けテントはブルーの地にBudweiserの白文字が入っていた。建物の二階三階も使われているようで、窓のカーテンも白い。

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2019/11/17

雪におおわれた三角屋根

 前回の春の国立駅三角屋根につづいて今回は真冬の写真、雪におおわれた三角屋根だ。

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 冬の国立は、都心と比べて随分寒く感じた。とくに最低気温は都心より3度から5度ぐらい低いことがあり、都心がみぞれでもしっかり雪になることが何度かあった。上の写真は1998年1月に撮影したもの。このときは駅まで行ったが、中央線が止まり復旧の見通しがまったく立たずアパートに戻ることに。バス通り沿いは駅前と同じように泥にまみれた雪が堤防のようにつづいていたが、一歩わき道に入ると真冬の信州の高原のような雪景色が広がっていた。それが下の写真だ。

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2019/11/10

三角屋根の想い出

 国立駅にあった「赤い三角屋根」13年ぶりに復活のニュースを目にして、かつて暮らした国立の記憶が蘇る。

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 上の写真は、1997年4月8日に撮影した国立駅。影の方向と長さからみて午前の早い時間帯のようだ。駅裏(北口側)に見えるネットはゴルフ練習場のもの、いまはここにマンションが建っている。じつはこの日は駅前の大学通りで満開のサクラを見物してから駅に向かったようで、この前のコマに下のような写真があった。
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 いかにもサクラ満開という写真が数枚つづいている、この日はそれらを撮影するためにカメラを持っていたようだ。国立駅の写真は最後の一コマだけ、たまたまフィルムが余ったので撮ったのかもしれない。いまになれば、最後の一枚によくぞ駅舎を選んだと思う。

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2019/04/29

深川区東大工町

 同潤会アパートといえば、いまは表参道ヒルズになった旧同潤会青山アパートを思い出す人が多いだろうが、じつは都内に16か所もあり東京の東にあたる深川にもあった。

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 清洲橋通りと三つ目通りの交差点に面して同潤会清砂通りアパートがあった。ここは600戸を超える大所帯で建物も10数棟から構成されていた。(上に載せた写真はその1号館、古いネガフィルムをデジカメでコピーし処理をしたもの。撮影は1990年頃)

 ところで、いま江東区清澄白河と呼ばれるこの地は、かつて深川区東大工町と呼ばれていた。美術エッセイストであった洲之内徹は、エッセイ「気まぐれ美術館」の「深川東大工町」の項で、アパートの暮らし、自身が経験した戦前の思想弾圧の話を残している。

 洲之内徹は、昭和6年から7年にかけて同潤会清砂通りアパートに住み、ここから美術学校建築科に通っていた。部屋は独身者用棟の4階角部屋、鶯谷駅近くから洲崎行のバスに乗り通学しており、そのバスの車掌の名前まで書いている。その後、久しぶりにこの地を訪れたときの話では、あの「実用洋食」のメニューと値段を紹介している。いまは清澄白河は、カフェや個性的な店が集まるオシャレな街として雑誌などに紹介されるが、「気まぐれ美術館」は、陰影が濃い戦前を含めた昭和の清澄白河を記録している。

 この同潤会清砂通りアパートは2002年に取り壊され、跡地に高層マンションが建てられている。

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2018/11/11

あの頃の御茶ノ水ジロー

 かつて御茶ノ水にあった喫茶ジローについて検索すると、現在、多くの飲食店を運営しているジローレストランシステムに行きつく。その沿革ページに、”1955年神田神保町にシャンソン喫茶「ジロー」開業”、”1957年JR御茶ノ水駅前に移転”、”1963年御茶ノ水本館2階にカフェテリア方式導入、喫茶・洋菓子・料理三部門体制確立”とあるが、それはどのような店だったのだろうか?

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 最近、御茶ノ水ジローの誕生を語る本を見つけその開店経緯をわずかながら知ることができたのでまとめてみた。

 「シャンソンの為に」(青山梓、創学社)は、1957年(昭和32年)発行。日本のシャンソンの歴史と活動を支えた関係者の話を掲載。そのなかで、当時都内にあったシャンソン喫茶を紹介している。

 銀座の銀巴里、新宿のラセーヌ、渋谷の十字路につづいて、池袋のシャンソン喫茶ジローを紹介。

 ジローの話をまとめると、”本店は駿河台下のジロー、この池袋支店は昨年12月に開店。本店はレコードだけのシャンソン喫茶だが、池袋は実演をやりたくて始めた。日本のシャンソンの作曲、作詞、編曲家を中心においてサロン・ド・シャンソンという発表の場を提供している”。さらに”ことし10月から新築中の御茶ノ水駅前新店にサロン・ド・シャンソンを移す予定”とある。

 これはジローの沿革にある1957年御茶ノ水移転の話と一致しており、御茶ノ水ジロー誕生とそこがシャンソンの場を目指したことがうかがえる。ベテランの方々が、ジローというと”シャンソン喫茶でしょう”と語るのは、このような背景があったからだろう。

 上の画像は、「シャンソンの為に」に収録されている「銀巴里、ジローの店内、銀座シャンのステージ」の写真。

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